2024年8月のみことば

命の食べ物

  それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
                    (ローマの信徒への手紙14章10~12節)

 愛は他の人に対して寛容であり、他の人を躓かせるような言動を致しません。
 パウロは人を愛する為には寛容でなければならない事をローマ教会に伝える為に、食べ物の例を取ってローマ教会に教えたものと思われます。というのも彼はコリントにいてこの手紙を書いているのですが、コリント教会は食べ物の事で紛糾していたからです。教会の紛糾の中には愛も寛容もありません。

 第一コリント8章にはこの事態について詳しく書いています。
 コリントの肉屋で売られていた肉は大半が偶像の神の宮に捧げられた肉であったと言われています。そこで、信仰者の内にこの肉を食べる事について、二通りの考えをする人たちのグループが出来ていたのです。この肉を食べる事を自らに禁止した人々がいました。
彼らは主イエス・キリストを神として改宗する前は偶像の神を神として崇めていた人たちですから、肉を食べる時にはこれ迄の習慣から、偶像に備えられた肉だという事が念頭から離れず、肉を食べる時には良心が咎めてしまうのです。この人たちが「信仰の弱い人」と呼ばれた教会員たちです。

 一方「信仰の強い人びと」がいて、何を食べても良いと自由に考え、信仰さえしっかりしていれば、偶像の神に捧げられた肉であっても信仰には関わりない、と考えられる教会員です。パウロもまた食べ物は神が備えて下さったものであり、食べ物によって信仰が左右されることはないと考えていました。しかし、実際、弱い人々は野菜だけを食べていました。それを見る強い人々は彼らの信仰が弱いからだと軽蔑し、反対に食べない人々は偶像に捧げられた肉を平気で食べている人たちを裁きました。「よく食べれるもんだ!」と。双方が互いに軽蔑し合っていたので教会は対立、分裂でとげとげしい雰囲気でキリストの平和も一致もありません。愛もなく、寛容も見られません。
この事があった為か、パウロはローマの教会の信徒たちに、食事を例にとって‶愛の寛容“を説いたのです。

 14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。で始まっていますが、この後パウロは私達が決して人を裁く事をしてはならない事について、決定的な理由を述べます。 「あなた方に裁く権利はない。なぜなら、あなた方自身が裁かれる人間だからです。」彼は終末の日、私達が皆、神の裁きの座の前に立つことを思い出させました。この世の終末の日、この世での誉、これをやり遂げたという成功も持ってゆくことはできません。持ってゆくことができるのは自分自身、人生で作り上げてきた自分の人格以外他にありません。

 私達は裸でこの世に生まれ、裸でこの世を去ってゆくのです。終末のその日、同じ裁きの座に立つ隣人を私達は裁く権利を持つでしょうか。持つ事は出来ません。わたしもまた隣人と同じように、裁かれるのですから。恐ろしく厳格に私に人生の全ての場面を孤独にたった一人で裁かれるのですから。愛を持たず、不寛容にも、他の人びとを軽蔑し、見下げていた罪は神によって裁かれ、その責任を問われましょう。神の前での言いわけ、弁舌にごまかしは通用しません。私たちの生にはキリストの霊が共に歩んでおられますので、もし偽りがあるなら、それは神の目には明らかだからです。人生の全てが神の御前に晒される。恥ずかしい罪がぼろぼろと出て来る。私はどのように神に応えるのでありましょう。

 言葉に詰まって、後悔の後に私たちに起こる事は何でしょうか。それはカルヴァンがまさしく言ったようにそれは‟謙遜と自己卑下“ではないでしょうか。謙遜を知った時、私達は愛を知るのです。自己卑下を知る時寛容が生まれるのです。誰もが皆審判者である神の前に立つ。この事を知っている者はこの世において自分の尺度、自分の価値観で兄弟姉妹を裁くような愚かなことはしないはずでありましょう。しかし、私達は兄弟姉妹を批判して自己満足に浸る事の何と多い事でしょうか。傲慢高々となっていたかつての自分が見えます。取り戻す事の出来ない汚点です。

 けれども、なぜ私たちはこりもせず、自分の考えに固執し、まわりがそれに屈し従う事を求めるのでしょうか。それは密の味だからだと言われています。蜜の味がする。一度この味を味わったものは止めることができない。それは誘惑です。トランプ大統領が4年前の大統領選挙で敗北した時、これを受け入れることが出来ませんでした。不正な方法を用いて迄大統領の座に返り咲こうと画策しました。今回は前回の不名誉な敗北から勝利へと行く情勢が取りざたされていますが・・。共産圏の二つの国の大統領、国家主席はその任期をあわや墓に入る直前近くまで延期するよう法律を変えました。

 話を戻しますが、みなが皆、審判者である神の前に立つことを知っている者はこの世における自分の尺度、自分の価値観を兄弟姉妹に求め、これに従わない人を裁くような愚かなことはしないはずです。そう 思い至たります時、今起こっている対立抗争の何と些末な事であるか。対立抗争に魂をすり減らす事の何と愚かな事か、です。第二イザヤの著者はイザヤ49章18節で主なる神が「わたしは生きている」と語っています。そしてその生きている神にすべての人は膝を折りかがみ込んで祈り、ほめたたえるのです、と歌いました。そして神はこの世の裁きを全てキリスト・イエスに委ねられました。その故に神の裁きは全てキリストを通して現れるのです。

 そのキリストは私達の為に死んで生き返られました。この意味は何でありましょう。彼はご自分の生と死によって私たちの生と死の一切の領域で私たちの“主”となられたのです。弱い人たちの主であり、強い人々の主でもあるのです。ですから、彼ら双方ともが主なる神に愛されているのですから、互いに兄弟姉妹を裁いたり侮ったりしてはならないのです。争いは愛の不毛であり、不寛容の現れだからです。キリストが私たちの代わりに死んで下さった命を食べ物のごとき対立で消耗していいものでしょうか。この事を見極めて上で自分の自由を制限するのが愛なのです。

 私は自由なものである。何を食べようが私は神の自由に生きており許されている。しかし、愛の配慮に立つならば、人は自分の自由を制限する事が出来るのです。愛は決して理由なくして自由の制限を求めることはありません。何を言ってもよい自由でも、何をしても良い自由でもない。自由も持つのは自分で自分の自由を自分から制限する時です。それは自由が悪の機会を提供するものになる時、私達は自分の自由を自ら制限するのです。それはより広い視野を持つ、寛容から、愛から出るのです。

 教会内に対立があると知ったなら、教会外の人は言うでありましょう。「何のために信仰しているのか」 「何のための信仰なのか。」と教会の人を信用しなくなるでありましょう。教会を信用せず、教会員には信頼を置かなくなりましょう。そうすれば、伝道どころでは在りません。 つまずきが起ります。パウロは云います。誰も自分の行う事を他の全ての人が行わなければならない標準とすべきではない、と。これは教会のおける災いに一つだと。私達は自分のやり方が唯一の方法だと考えがちになる傾向があります。

 ケンブリッジ大学にことわざがあるそうです。「汝のなそうと考えた事は、すべて汝の力で成せ、しかし、他の人は異なった考えを持っている事をも覚えよ」と。確信をもって行う事は義務でもありますがしかもそのことにおいて他者を除外する事ではなく、彼らにも彼ら自身を持たせる事も同じ義務なのです。

 窓際のトットチャン こと、黒柳徹子さんは小学校を退学させられています。小学校で退学などあるのかと驚きますが、利発な彼女には、見るもの聞くものすべてが不思議で詰まっていたのでありましょう。何事にも好奇心旺盛でおしゃべりが過ぎることが画一化した教育現場で嫌われたと考えられます。彼女をよく伸ばす寛容な教育は考えられることはなく、彼女は除外されたのです。排斥されたのです。人と人は違って当たり前、が受け入れられず、一色に染め上げられる事が強制される世は愛の無い不寛容な世です。そこで人権侵害が起こりました。彼女は孤独で寂しかったと言いました。人の人との人格的相違があるのは当然です。この相違はあっても神の自由の内に人は愛されなければならないのです。どの兄弟姉妹の為にも神は死なれたのです。

 ここ迄神の裁きの厳しさについて語ってきましたが、今一つの真実があります。それは私達が神の裁きの前に立つ時一人ではないという事です。キリストと共に立つ。キリストは私達と共に歩んでこられた。その方の聖霊が私達の弁護人として御神から注がれたのです。
新約学者バークレーは有名な作家でありジャーナリストのジェラルデイン・ブルックスの言葉を語ります。「神は私達が思っているよりも情け深い方である。もし神が『よくやった、善且つ忠実な僕よ』と言えないならば、『心配するな、善い事もしないお前、不忠実な僕であるお前であるが、私はあなたが全く嫌いだという訳ではない』と言われるであろう」と。

 私達は神の期待の応えられるような善人でもなく罪人でありますが、主イエス・キリストの故に神がそんな罪人のわたしをも愛していて下さることも真実だと信じる者です。私たちは自分の赤裸々な人生を引っ提げて、神の裁きの座の前に立たなければならないのは確実ですが、曲がりなりにもキリストと共に人生を生きて来たならば、私達は死においても彼と共にその座につくでありましょう。そして聖霊は私達の弁護者として私たちを擁護されるお方でもあるのです。そのお方は愛のある方、寛容なお方でもおられます。

 人の前につまずきを置かず生きてまいる事が出来ることは私達の平和です。この道の途上で、必ずとも、神は愛と寛容の徳を私達にお与えくださるのではないでしょうか。それが私たちの最高の食べ物です。私達は生きているこの間に、終末に裁きが待っている事を覚えることがこれらのことを可能として下さるのです。
 お祈りいたしましょう。

上尾使徒教会 武井アイ子牧師
(たけい あいこ)
 





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