2024年9月のみことば |
ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」 (創世記8章20~22節) |
(1)本日の聖書箇所に至るまでの流れ(引用の章/節は、すべて創世記) ①天地創造(1章1節~31節) 創世記の天地創造物語には、聖書全体を貫く神の本質が記されています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、(後略)」(1章1節~2節)の書き出しは、初めに神の視線が地に向けられたことを記しています。しかも、この地は、人が常に自らの存在を優先させ他の命に対して支配的な態度を取り続け、そこに調和やお互いの命に対する慈しみもなく、他者への疑心暗鬼や懐疑が渦巻く、混沌であったというのです。 神の創造の業は、私たちの本質的な闇が覆う地に対して、新しい秩序を創り出そうと始められます。それは、私たちが持っている闇を排除するのではなく、闇の存在を前提にしています。自身の内にある闇や混沌の存在を自覚し、自身の努力では克服できない闇を気付かせるために、「光あれ」と言われた神の真意に目を留める必要があります。ここには、「神は言われた。…そのようになった」が繰り返し記され、神の“言(ことば)”が秩序の源であり圧倒的な力を有していることが強調されています。その力は闇を制圧するのではなく、共生と調和という秩序を築くためのものです。 ②人の悪が増す(2章1節~4章16節) 人は神から命の息を吹き入れられ生きる者となる(2章7節)とは、人が他の被造物と異なる存在、神と親しく向き合う関わりを持つ存在だということです。ゆえに神は人に対して、「エデンの園(命の調和する場)に住まわせ(留まらせ)、人がそこを耕し(仕え)、守るようにされた」(2章15節)と、人が成すべき使命を示されたのです。この神と人とが本来あるべき関係を崩すのは、「神のようになり、善悪を知るようになる」(3章5節)という言葉に惑わされたからです。 「神のように…」とは、この私が判断の基準となり、(神に代わって)善と悪を判断できるという思い。聖書において“死”とは、生涯の終わりを意味する言葉ではなく、神との関係が断たれることを意味し、神ではなく自分が…という考えに立つ時、それは“死”を意味するのです。そのことによって神との対話が成立しなくなり、「どこにいるのか」(3章9節)という神の問いかけに対して、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」(3章10節)と場所(どこ)を問われているのに、心境(恐ろしくなり)と的外れな返答をしたように神と人との関係性が崩れていきます。この関係性の悪化は、人が自身で判断することでさらに増大します。 兄のカインと弟のアベルは互いに献げ物をしますが、神がアベルの献げ物にのみ目を留 められたので、カインはアベルを殺してしまう(4章1節~8節)。ここでも、カインが神に「なぜ神が目を留められなかったのか」と問うこと無しに、自分でアベルに嫉妬して存在を抹消したのです。ここも、神不在の独断が罪を増大させます。 (2)「ノアの箱舟」の起点/分岐点/帰着点(引用の章/節は、すべて創世記) ①起点;洪水の動機(6章5節~8節) 「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6章5節~6節)とあり、前項⑴-②で触れたように人の独断(神不在の判断)による悪が満ちている状況を、神が後悔されたことが起点となっています。 ②分岐点;水が減り始める(8章1節) 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かれたので、水が減り始めた」(8章1節)と記されてあり、一対の命(新たな命の誕生単位)を御心に留められた(親愛の情;相手を大切に想う)ことが分岐点となり、水が減り始めることになります。地上に人の悪が増す(多い)ことを承知の上でなお、神は人をはじめあらゆる命が生み出される環境を大切にしたい、と強く願っていることが記されてあり、天地創造の業から一貫しています。そして、神の願いは抽象的なものではなく、“水が減る”という具体的な形で現わされるのです。 ③帰着点;神の決意(8章20節~22節) 水が減り地上に立ったノアは、先ず神に礼拝をします。その時に、神は「御心に言われた(自分の心に向かって言った)」(8章21節)とあり、その内容は「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8章21節)という御自身に向けた誓いです。 ここで注目したいのは、洪水の動機になった言葉「常に悪いことばかりを心に思い計っている」と神の決意の言葉「「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」は、明らかに矛盾していることです。⑴-①で見たように、神の“言(ことば)”が秩序の源であるはずなのに、神ご自身がその秩序を崩して矛盾した行動をされるのです。神はそれほどまでに、人を特別な存在として下さるのです。このことは、私たちの心にしっかりと留めたい真理です。 神の目に映る地上の“悪”とは、何でしょうか。聖書に記されている“悪”の語は、“的外れ”という意味の語が使用されています。私たちの眼が本来見るべき神を見ずに、自他の容姿や行動に加え肩書など、私たちが生きる社会の価値観に焦点を当てて一喜一憂する日々を送っています。また、私たちはアダムとエバのように、約束を違えた時には責任を他者に転嫁し、自己正当化しようとします。社会生活だけではなく信仰生活においても、勤勉であることが神に評価さるという誤解をしています。 神は、『地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている』という事実は、神の救いの課題です。その悪のゆえに人を滅ぼしたとしても、神が人を創造された目的を矯正することは出来ません。それ故に、ノアとその家族は救われましたが、神はその家族の中に悪の根があるのを承知していたので、『人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ』それでも『わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい』という誓いをされるのです。この誓いこそが、私たちに対する“神の決意”なのです。 聖書が記す“信仰”という語は、“信頼”と訳されるべき語で、自身の存在を全面的に神に(キリストに)委ねる・託すことを現わす語なのです。自身の品行方正な行いや、勤勉さによって神の評価を得ようとすることは、本日の箇所に示されている「神ご自身が、たとえ自己矛盾を犯してでも悪(的外れ・自己中心性)を内包する人を生かしたい、人との特別な関係を築きたい」という“神の決意”を無に帰すことになると覚えたい。 |
埼玉和光教会 岩河敏宏牧師 (いわかわ としひろ) |
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