2024年10月のみことば

起きなおす

  ヨッパにタビタ(これを訳すと、ドルカス、すなわち、かもしか)という女弟子がいた。数々のよい働きや施しをしていた婦人であった。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々はそのからだを洗って、屋上の間に安置した。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちはペテロがルダにきていると聞き、ふたりの者を彼のもとにやって、「どうぞ、早くこちらにおいで下さい」と頼んだ。そこでペテロは立って、ふたりの者に連れられてきた。彼が着くとすぐ、屋上の間に案内された。すると、やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて、ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった。ペテロはみんなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起きなおった。ペテロは彼女に手をかして立たせた。それから、聖徒たちや、やもめたちを呼び入れて、彼女が生きかえっているのを見せた。このことがヨッパ中に知れわたり、多くの人々が主を信じた。ペテロは、皮なめしシモンという人の家に泊まり、しばらくの間ヨッパに滞在した。
                 ( 【口語訳聖書】 使徒行伝9章36~43節 )

  みなさんにとって「なくてはならないもの」は何でしょうか。人によればその答えも違ってくるでしょう。例えばお金であったり、家であったり、食べ物であったり。衣食住がしっかりしていなければ、わたしたちは安心して生活はできません。だからこそお金、家、食べ物、服はわたしたちにとってなくてはならないものです。しかしそれらは生きるために必要なものです。生きるためになくてはならないものは、命であります。命がなければ何もできません。命は何よりも尊いものです。だからこそ命を失った時、人は悲しみの底へと沈むのです。その人にとって最も大切な、なくてはならないものが亡くなってしまった。この事実を前にすると、わたしたちは無力になり、本能的に泣くのです。

 今日の聖書箇所にも、その命を失った人が登場します。タビタという女性の弟子がヤッファという町に住んでいました。聖書によれば多くの良い働きと施しをしていた婦人とのことです。このタビタはペトロや使徒たちのもとで学び、キリストの福音のため多くの奉仕をしていたのでしょうが、病気によりあっけなく亡くなってしまいます。タビタへの周囲からの期待は、死という逃れられない事実を前に無へと消えていきます。ペトロがリダに住む信徒たちのところを尋ねて来ていたのもあり、タビタと共にいた弟子2人がペトロを招くことになります。ヤッファに着いたペトロは屋上の間に安置されているタビタのもとへ案内されました。するとそこにいたやもめたちがペトロに寄ってきたとあります。

 やもめとは寡婦と同義で、夫と死別又は離別した後再婚していない女性のことを指します。当時のユダヤの律法によれば、このやもめは社会的に弱い立場でありました。男性中心社会であり、女性は結婚していなければお金も何も与えられない状況でしたので、神殿で物乞いをしなければ生きていくことが困難であったのです。そのやもめたちがペトロのそばに寄り、ドルカスつまりタビタが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せました。タビタがしていたよい働きや施しとはどのようなものであったかは詳しく書かれていませんが、おそらくここにいる女性たちのために服を作ってあげていたのでしょう。それがどれほど彼女たちの心の支えになっていたことでしょう。

 聖書時代であっても、上着や下着をそろえるにはお金が必要です。そのお金が社会的立場から得ることができないのです。タビタは彼女たちの生きていくために「なくてはならないもの」を与えていました。その敬愛するタビタの最も「なくてはならないもの」がなくなってしまった。この出来事を前に彼女たちは泣いて、タビタが残した自分たちへの施しを見せ、タビタへの思いを伝えました。

 この女性たちをはじめこの場にいた人々がペトロを呼び寄せたのは、彼女の死を共に泣いてほしいと願っていたのであって、彼女を生き返らせてほしいと願っていたわけではありません。使徒ペトロがどれほどの癒しや奇跡を行ってきたかは知っていましたが、一人として「タビタを生き返らせてください」と願っている人はいないのです。

 ペトロは女性たちや弟子たちの悲しむ様子を見、みなを外へ出させたのち「タビタよ、起きなさい」と言います。途端にタビタは目を開き、ペトロを見て起きなおったとあります。キリスト教の神秘性はここから来ています。人が死ねば生き返ることはできない。これは常識でありますが、神の御業によりその常識は打ち砕かれるのです。それが信じられないという人もいるのも事実です。なぜペトロはタビタを起きなおさせたのでしょうか。

 これはキリスト教における死生観に通じるものがあります。キリスト者は生きている間、神の祝福と愛に包まれて過ごします。そしていずれは必ず肉体の終わり、死がやってきます。死んだ後肉体は朽ちてもその命は主の御元へと招かれしばらくの眠りにつきます。そして主イエスがこの地上に再臨し、生けるものと死ねるものを裁く際、わたしたちは再び起きなおし神の支配される世界で永遠の命を得て生きることができる。簡単な説明ではありますが、これがキリスト教の死生観です。よってキリスト教においての死は終わりではありません。タビタのように起きなおすことができる、希望そのものであるのです。

 葬儀でもそうです。仏教は亡くなった方を前にその魂に語り掛け、無事に成仏できるようにと願いますが、キリスト教は根本が違います。主なる神を信仰し、主イエスを救い主と告白した者は間違いなく神の御元へと招かれます。ですから魂に語り掛ける必要はありません。その死を前に無気力になり悲しみに包まれている残されたわたしたちに、深い慰めを与えてくださいます。そう、ペトロがタビタを起きなおさせたのは、悲しみのあまり泣くことしかできない人々に希望を伝えるためです。生き返ったタビタがその後どうしたかは聖書に書かれていません。生き返ったタビタよりも、それを見た人々がどうだったかに焦点を当てています。

 42節には「このことがヤッファに知れわたり、多くの人々が主を信じた。」とあります。起きなおしたタビタのことを知った人々は、その人知を超えた奇跡を前に主を信じたのです。悲しみに打ちひしがれる人々に神の慰めを伝えるには、タビタの生き返りが最も有効だったのでしょう。つまりこれはキリストの名によって行われた葬儀であったのです。

 過去牧師として就任した教会において、多くの葬儀に立ち会いました。枕頭の祈りをすることは牧師の務めですから、亡くなられた方の元へ出向き祈りを捧げます。その方々は本当に眠っているようで、「起きて」と語り掛けると目を開くのではないかと思うくらいです。でもそこには間違いなく、「なくてはならないもの」である命がありません。その事実に心が締め付けられます。周りには泣かれている方々がいて、悲しみしかその場にはありません。しかし枕頭の祈りには悲しみにある人々への慰めの言葉があります。

 全能の父なる神。この世界のすべては、御手によって創造され、いついかなる時にもあなたの恵みの中に置かれています。わたしたち人間もあなたの慈しみのもとにあり、一人一人の人生はあなたの導きと祝福の中に置かれています。
 わたしたちは今、はかり知ることのできない御旨によってみもとに召されたこのかたを覚えて、ここに集いました。あなたがこの方に与えられた生涯の歩みと、あなたの恵みの業の数々を思い起こし、感謝をささげます。どうかこの方をみもとに受け入れ、いつまでも変わることのないあなたの平安をお与えください。
 主なる神、愛するこの方との別れによって、悲しみと不安、驚きと寂しさの中にある人々をお守りください。あなたに信頼することを通して、慰めと励ましを受け、この方との交わりを感謝することができますように。そして、今から行われるすべての式を、召されたこの方への厳かな敬意のうちに執り行い、それらを通してあなたの栄光をあらわすことができるようにお導きください。わたしたちの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 これまでの出会い、導き、交わりに感謝を捧げ、召された方への思いを告白し、残された方々への慰めを祈ります。この慰めにより私たちは悲しみから希望へと起きなおすことができるのです。神はわたしたちを悲しみの内にとどまらせるのではなく、その悲しみを越えた希望へと導くため、深い慰めを私たちに与えてくださいます。タビタのように、キリスト者は死してなお、永遠の命を受けて起きなおします。これ以上の恵みと希望はありません。生きている私たちもそのことを希望にしていこうではありませんか。愛する人の死は逃れようがありませんが、その死がすべての終わりではなく、起きなおす希望へとつながっているのです。恐れることなくその希望の道を共に手を取り合いながら歩いて行きましょう。
深谷教会 佐藤嘉哉牧師
(さとう よしや)
 





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