2024年12月のみことば |
大きな喜びを告げる
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 (ルカよる福音書第8章8〜21節)」 |
私たちはこの聖書の話を聞くとき、どこかおおらかな、のんびりした羊飼いの姿を想像するのではないかと思います。しかし当時、羊飼いである彼らが置かれた状況は過酷なものでした。春や秋であれば、比較的暖かく、外でも過ごしやすいことでしょう。しかし、夏は暑すぎますし、冬は寒すぎるのです。また季節に関わらず、羊たちが他の獣に襲われないよう、盗まれないよう、夜も見張っていなければなりませんでした。その季節がいつであったか分かりませんが、もし冬の寒さ厳しい時であれば、それは大変なことです。氷点下の寒さの中、肌を刺すような寒い風が吹くような状況であれば、とてもじゃありませんが眠れません。 そんな過酷な状況で働いていれば、体を酷使し、若くして体を壊し、寿命を縮めていたに違いありません。羊飼いであれば、羊をたくさん所有して裕福であったのではないかと思うかもしれませんが、当時の羊飼いとは、雇われの身です。裕福な主人が、羊を所有しており、彼らは、今でいう非正規労働者なのです。主人に仕える、低賃金で雇われた貧しい者たちなのです。また羊飼いは、宗教的側面から見ても虐げられていました。ユダヤ人で生きるとは、様々な掟を守り、宗教行事に参加することが求められていました。 しかし羊飼いは、それらの掟を守ることができません。また宗教行事にも参加することができません。彼らの生活は、羊が中心であり、羊のために休むことなどできないのです。ですから、ユダヤ人は、羊飼いの人たちを見て、罪人とみなし、軽蔑していたのです。ですから羊飼いは、当時の社会における最底辺の仕事であり、誰もがなりたくない職業の一つだったのです。彼らは信仰的にも経済的にも、民から軽蔑され、見下されていたのです。 皆さんはこの聖書の箇所を読んだとき、羊飼いとは自分には関係ない者だと思われたのではないでしょうか。しかし先ほど説明しましたように、彼らの置かれた状況を知るとき、彼らの境遇は、自分にも重なるところがあるのではないでしょうか。それは、この世の中、このような声で溢れているからです。「あなたには良いところはない。あなたには価値がない。こんなこともできないのか。皆と同じにできないのか。それはあなたの責任だよね。足手まといだよね。」そういった否定的な呪いのような言葉がこの世に溢れているのではないでしょうか。 私たちはそのような呪いの言葉に触れることによって、その悪のささやきが真の言葉となり、それを信じ、その言葉に縛られているのではないでしょうか。学生であれば、偏差値で自分の価値が測られている、そう信じているのではないでしょうか。「自分はこれだけの偏差値なのか。自分は人より出来ないのか。自分は価値ない存在だ」と。働く人であれば、いつも同期と比べながら、ポジションを気にしているのではないでしょうか。自分の地位が同期よりも低ければ出世できないと思い、自信を失い、自分には価値がない存在なのではないと思うのではないでしょうか。 子供を育てるお母さんは、育児に振り回され、育児と家事で疲れ果てておられると思います。しかしそのように一生懸命に子供のため、家庭のために自分の時間を献げているにも関わらず、夫や世間が、それを評価しない、ということがあります。誰も私のことをほめてくれない、感謝してくれない。私はぼろ雑巾なのか。誰も私のことに感謝し、愛してくれない。そういったお母さんは多いのではないでしょうか。 仕事をリタイアされたばかりの人であれば、自分の居場所を失い、孤独を抱えている人が多いのではないでしょうか。自分はこれから何をしたらよいのか。会社だけが生きがいだったのか。家にも自分の居場所がない、話し相手もいない。孤独だ。この空虚感はなんなのだ。自分を相手にしてくれる人はいないのか。そのように人生に危機を迎えている退職者は多いのではないでしょうか。また、80代、90代の御方であれば、体に弱さを抱えているのではないでしょうか。耳が聞こえづらくなった。足腰が痛み、自由に散歩することができない。だから家で引きこもりがちだ。自分の存在は、子や孫から煙たがられているのではないか。そんなことを心配している御方もおられるでしょう。 私たちの耳もとに悪のささやきがあり、呪いの言葉に毒されることによって、私たちは「自分はたいした人間ではない。自分はいてもいなくても同じだ。自分は価値のない存在だ。」と、そう思ってしまう、そう信じてしまうことがあるのです。そのとき、自分のことを責め始めるのです。自分を責め、希望を失い、不安や恐れに囚われてしまうのです。 羊飼いたちもそうだったのではないでしょうか。「お前たちは、神殿にも行けず、神に嫌われている。お前たちはぼろ雑巾のように使われ、おしまいだ。お前たちには価値がない。将来などない。」羊飼いたちもそのような世間の声を耳にし、そうなのだと、信じていたのではないでしょうか。「自分は価値のない、捨て駒だ。生きていても生きていなくても同じだ。誰も尊敬してくれない。誰も愛してくれない。」羊飼いたちは、そう思い、孤独を抱え、希望を見出せず、人生を憂いていたのではないでしょうか。 しかし、そんな不安と自責の念で苦しむ羊飼いのもとに、神はやって来られたのです。羊飼いの苦しみを御覧になり、共に苦しまれる神が、羊飼いのもとにやって来られたのです。希望を持てない彼らのことを神は憐れみ、希望の知らせを告げ知らせるため、やって来られたのです。そして神はこう言われたのではないでしょうか。 「羊飼いであるあなたが置かれた状況をすべてわたしは見ていた。あなたたちは人から軽蔑され、見下され、差別されているのをわたしは見た。そして世間は皆、あなたたちを不信仰な者、罪人、価値のない者と言う。しかし、それは全くの誤りだ。世間の呪いの言葉にだまされてはならない。なぜならわたしがあなたを愛しているからだ。わたしはあなたにいのちを与えた。あなたの母の胎にいるとき、わたしはあなたの体を造った。私はあなたが生まれてからこのときまで、あなたの歩みを絶えず見ていた。あなたが苦しんでいるとき、わたしも苦しんだ。あなたが喜んでいるとき、わたしも喜んだ。あなたはいつも孤独だったと思っているかもしれないが、しかしそうではない。わたしはいつもあなたの傍らに共にいた。 あなたはわたしにとって愛する者。わたしの子だ。あなたのことを決して見捨てない。これからも永遠に。今宵、わたしはあなたに希望を与える。それは、救い主をあなたたちのために遣わしたことだ。この子は、あなたたちに救いと希望を与える。だから、あなたは希望を失ってはならない。その希望を胸に抱き、生きなさい。くじけてはならない。私は決してあなたを見捨てない。なぜならわたしにとってあなたは高価で尊いからだ。あなたはわたしの最高の芸術作品だからだ。わたしはたえずあなたを支え、守り、養い、導く。だから安心しなさい。恐れてはならない。さあ、新しく生きなさい。」 救いの知らせを聞いた、祝福の言葉を聞いた羊飼いたちは、本当に心慰められたことでしょう。それは自分が愛されていると、初めて知らされたからです。神から注がれる愛を糧に、喜びと希望を胸に抱き、羊飼いたちは新しい人生を出発したに違いありません。 |
飯能教会 木村光寿牧師 (きむら こうじゅ) |
今月のみことば | H O M E |