2025年1月のみことば |
その時、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。すると、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる。誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」 (マタイによる福音書9章14~17節) 主なる神の霊が私に臨んだ。/主が私に油を注いだからである。/苦しむ人に良い知らせを伝えるため/主が私を遣わされた。/心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために。 主の恵みの年と/私たちの神の報復の日とを告げ/すべての嘆く人を慰めるために。 シオンの嘆く人に/灰の代わりに頭飾りを/嘆きの代わりに喜びの油を/沈む心の代わりに賛美の衣を授けるために。/彼らは義の大木/主が栄光を現すために植えられた者と呼ばれる。 彼らは古い時代の廃虚を建て直し/かつての荒廃した地を復興し/廃虚の町、代々の荒廃地を再建する。 他国の人々が立ってあなたがたの羊の群れを飼い/異国の子らがあなたがたの畑を耕す者/ぶどうを作る者となる。 あなたがたは主の祭司と呼ばれ/私たちの神に仕える僕と言われ/国々の富を享受し/その栄光を誇る。 あなたがたは二倍の恥と辱めを受けた代わりに/自分たちの分け前を喜び歌う。/それゆえ、その地で二倍のものを受け継ぎ/とこしえの喜びを得る。 主なる私は公正を愛し、不正な強奪を憎む。/私は真実をもって彼らに報い/永遠の契約を彼らと結ぶ。 彼らの子孫は国々に知られ/その末裔はもろもろの民の中で知られる。/見る人は皆、認めるであろう。/これこそ、主が祝福された子孫である、と。 私は主にあって大いに喜び/私の魂は私の神にあって喜び躍る。/主が救いの衣を私に着せ/正義の上着をまとわせてくださる。/花婿が頭飾りをかぶり/花嫁が装飾品で飾るように。 地が芽を生えさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての国々の前で/正義と賛美を芽生えさせてくださる。 (イザヤ書61章1~11節) ※聖書は聖書協会共同訳です |
主の恵みのうちに主の年2025年の元旦を迎え、礼拝を捧げ、祈りと賛美をもって新しい年を歩み出すことができる恵みを神さまに感謝いたします。 新年を迎え、私たちは新しい思いを持って、この礼拝に集められました。お一人お一人がこの年を迎えての祈りや目標を携えて、元旦礼拝を捧げていることでしょう。その祈りに先立って、私たちは心に刻み込みたいことがあります。それは新年1月1日の持つ二つの信仰的な意味です。 ひとつはこの1月1日は神が天地を創造された最初の日であるということです。 旧約聖書の一番はじめ、創世記に、神は混沌と闇の何もない中に「光あれ」との御言葉によって天地創造を始めたられたことが記されています。それが古来より1月1日だと考えられてきたのです。神の愛とご意志によって万物が造られ、神のご計画が始まった日、それが1月1日に込められている意味のひとつです。 それともう一つはこの1月1日が命名日。クリスマスに誕生した御子が8日目にイエス、「神は我らの救い」という意味の名前がつけられた日であるということです。 1月1日が命名日である。これは実に深い意味があると思います。「一年の計は元旦にあり」と申しますが、私たちの一年の歩みはこのイエスという御名から始まる。我らの救いである神、主イエスの恵みと共に一年を、新しい歩みを始めることができるのです。 私たちは新年を迎えるとおめでとうと言います。そのめでたさの中心にあるもの、それは神の愛のご計画であり、そのご計画によって私たちに与えられたイエスという御名であります。だから私たちはこの一年の始めに心から祈りを捧げることができるし、おめでとうということができるのです。 バッハの作品に元旦のためのカンタータという曲があります。その歌詞にこういう一節が歌われています。「新しい年、私が最初に口にする言葉、それはイエスという御名、その御名はいつでも私の口にのぼり、その御名が口にのぼる時、笑いが生まれる。そして終わりの日、イエスはまた私の最後の口にする言葉」。 バッハは歌うのです。私たちの新しい年、それはイエスという御名から始まる。その御名をこれから毎日、毎日、口にする。その御名を口にする時、私たちに喜びがあふれる。 わたしたちはこの年がどのような年になるか分かりませんし、どういう出来事が起こるか全く分かりません。しかし何が起きようとも、この1月1日から始まるこの年が神のご計画の中にあり、イエスさまの救いの恵みの中にあることを覚えたいと思います。そしてどんな時も神が下さった救いであるイエスさまの名を呼びたいのです。悲しい時、イエスさまの名を口にする。苦しい時、イエスさまの名を口にする。どんな時にもイエスさまを私の救い主と信じて、その名を口にする。その時、私たちに喜びが生まれます。涙はぬぐわれ、苦しみの中に慰めが与えられ、絶望の淵に希望が与えられます。そしてそれは終わりの日まで変わらなく続く。終わりの日にも私たちはイエスさまの御名を口にする。たとえ死に際しても、私たちはイエスさまの御名を口にする。私たちはイエスさまの御名を口にして、神の救いのご計画の中をこの一年も希望をもって歩むことができるのです。 今日、主の御名から始まる2025年の元旦礼拝に日本基督教団聖書日課の元旦礼拝の箇所が与えられました。その中で主イエスはこう宣言されました。 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」。 この御言葉は、主イエスがマタイの家で徴税人や罪人との食事をしている時に語られました。9章9節以下によれば、徴税人や罪人と食事をしている主イエスを見て、ファリサイ派の人々が「なぜあなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難します。すると主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・私が来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである」と語られました。主イエスは罪の現実にある私たちすべての人を招くために来られたと宣言されたのです。 しかしこの時の食事に対して、主イエスを非難したのはファリサイ派の人々だけではありませんでした。ヨハネの弟子たちも非難したのです。14節。 「その時、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子は断食しないのですか』と言った」。 ヨハネの弟子たちというのは洗礼者ヨハネの弟子のことです。言ってみれば主イエスにとって兄弟弟子にあたるような人々です。彼らが来て、なぜあなたの弟子たちは断食しないのかと非難したのです。 断食というのは食を断って神に心を向ける行為で、ユダヤ教では断食は施しや祈りと共に三大行為とされていました。祈る時に断食する。また悔い改めの行為として断食をする。そのことをユダヤ人は大切にしてきたのです。当時の断食は一般的には太陽が昇っている間、朝から日没の間、食を断つということだったようです。この断食を普通のユダヤ教徒は週に1度、敬虔な信者は月曜日と木曜日の週に二度、行っていたようです。実際にこれをするとしたら大変だと思います。なかなかできないと思います。おそらくこの日は多くの人々が断食をおこなっていた日だったのでしょう。その時に宴会の楽しそうな声が聞こえてきた。それが主イエスを中心とした宴会だったというのです。 このヨハネの弟子たちの非難に対して主イエスは三つのたとえを持って教えておられます。その中で「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」という御言葉が語られたのです。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」。この御言葉には「古いもの」と「新しいもの」が相容れないこと、そして私たちキリスト者は「新しいぶどう酒」を入れられた革袋であることが込められています。主はこうおっしゃいました。17節。 「また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」」。 当時、収穫されたぶどうはすぐに絞られてぶどう汁として革袋に保存されました。乾燥した水が少ないパレスチナにとってそれは水分としてとても貴重なものでした。しかし冷蔵庫がある訳ではありません。新鮮なぶどう汁は発酵し、ぶどう酒となります。そしてそれは革袋をパンパンに膨らまします。その時、革袋が古い場合には破れてしまい、ぶどう酒も革袋もどちらも駄目にしてしまうことがあったのです。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」これは当時の人々にとって生活の経験からあたりまえのことだったのです。 ここで主イエスがこのたとえを通して告げる新しさ、古さとは何のことを意味しているのでしょうか。それは神と人との関係です。ここでヨハネの弟子たちは断食を求めました。断食とは律法に生きる古い神と人との関係を代表するものです。断食はモーセが神から律法を受けるにあたって40日40夜、何も食べず、何も飲まなかったことに由来しますが(出エジプト34章8節)、人間の側からの神に対する敬虔な態度、姿、生き方が断食には込められているのです。イスラエルの民はそのことを大切にしてきました。律法を守り、断食を行い、人間の方から神に対して、自らの義、自らの正しさを示そうとしたのです。それは確かに、誠実で、まじめで、立派な姿だと思います。今でも断食や律法を大切にして生活しているユダヤ教徒の姿を見ると、すごい、尊敬に値すると思います。しかしそれはどんなに立派でも所詮、人間の側からの働き、人間の営みなのです。むしろわたしたちはどんなに正しく生きようとしても、罪を犯してしまう弱さの現実にあるのではないでしょうか。 しかしそのような人間の側からの神と人との関係ではなく、神の側からの関係、ただ恵みによる新しい関係が結ばれたのです。その新しい関係は、預言者エレミヤが預言し、そしてキリストによって実現した新しい神と人との関係です。預言者エレミヤはエレミヤ書の31章の中でこの新しい関係をこう預言しました。 「私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。・・・私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。・・・小さい者から、大きい者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである―主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪に思い起こすことはない」(エレミヤ31:31~34)。 神ご自身が私たち一人一人の心の中に律法(御言葉)を授け、神と人が深い交わりに生きる。そして神ご自身が私たちの悪を赦し、罪を心に留めないとおっしゃって下さる。エレミヤはこの恵みの契約が神ご自身によって結ばれる日がくることを主が約束して下さったと預言しました。今や、この新しい神と人との契約は主イエスによって実現したのです。主が十字架にかかり、罪のあがないとなって下さり、私たちが神の子として生きる祝福が実現したのです。 もはや人の努力によって神との関係を結ぶ古い時代は過ぎ去りました。神の恵みによって、主イエスによって結ばれた神の愛と恵みの関係に生きる新しい時代が始まったのです。 私たちは主によってこの新しいぶどう酒をいただいています。だからそれを人の手によって神との関係を求めていた古い革袋に入れるのではなく、ひたすら神の恵みに生きる新しい革袋にそれを入れるようにと招かれているのです。 そしてそれは私たちが婚礼の祝宴へと、喜びの祝宴へと招かれているということです。ユダヤ社会において婚礼の祝いをする7日間は断食が免除されました。その間は盛大に喜び祝う時とされ、その喜びは新郎新婦がともにいる時に最高潮に達しました。まさに今、主イエスが花婿として共にいるのだから、断食をする必要はない。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか」と主イエスはおっしゃるのです。 「しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食をすることになる」。 主イエスはそうもおっしゃいます。これは後の主の十字架を指しています。この言葉はマタイ福音書では最初の受難を予告する言葉です。またこの時の断食とは後にキリスト教会が行った主が十字架にかけて殺された受難週の金曜日の断食のことでしょう。キリストの十字架の苦難と死を思う時、断食をせずにはいられなかったキリスト教会の悲しみと悔い改めの思いがそこにはあるのです。しかしこの断食はヨハネの弟子たちの断食と徹底的に異なるのです。なぜならそれは自分の正しさを示す断食ではなく、何よりも主の十字架の愛を心に刻む断食だからです。主の復活という命の勝利を待ちわびる断食だからです。主の十字架と復活によって、祝宴の喜びはさらに大きく、さらに確かなものとされることになるのです。 私たちは主イエスの福音という新しいぶどう酒をいただいています。だから自分の力で救いを求める古い革袋ではなく、主イエスの恵みに生きる新しい革袋としていつも新しくしていただきたいのです。 聖書協会共同訳あるいは新共同訳の革袋の革という字は、それ以前の聖書の皮袋という字と違います。今回の革は改革とか革新という時の字です。私たち宗教改革の伝統にある教会は「御言葉によって絶えず改革される教会」として常に新しい革袋となっていく教会です。そして私たち一人一人の信仰も「御言葉によって絶えず改革され」「日々新たにされる」新しい革袋とされています。だから新しい年2025年、私たちの教会も、私たち一人一人も新しい革袋として「御言葉によって絶えず改革され」「日々新たにされて」ひたすら主イエスの恵みに生き、御言葉を宣べ伝えたいと思うのです。 主の御名から始まる新しい年2025年の歩みが「新しいぶどう酒」である主イエスの愛と恵みに満たされた「新しい革袋」として歩めるように共に祈りましょう。 (祈り)天の父よ、今日、元旦に与えられた御言葉を感謝いたします。どうか新しい2025年、新しいぶどう酒である主の福音に生きる新しい革袋して歩ませて下さい。御言葉に聞き、御言葉によって絶えず改革され、御言葉を証しするものとして下さい。この主の御名から始まる年、主の御名を呼びつつ、神さまの栄光を現わす歩みとなりますように。 |
大宮教会 熊江秀一牧師 (くまえ しゅういち) |
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