2025年2月のみことば

道を敷き、大河を流される主

 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
                    (イザヤ書43章18~21節)

 イザヤ書43章18節から21節は、イスラエルがバビロンに滅ぼされ捕囚の民となって苦しい状態の中にいた時、預言者イザヤを通して、このイスラエル民族がバビロン捕囚から解放される、という預言が記された箇所です。
 そして、その中で預言者イザヤからの言葉は「主の約束」の前にいくつかのメッセージがある事を覚えたいと思います。

① 「神のこれからに期待する」
 さて、18節「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。」とは何を指しているかというと、前節の16~17節で、「主はこう言われる。海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。」と記している点から、出エジプトの事であると言えます。

 そして、イスラエルは、あの奴隷の地エジプトを出た時に、大いなる神の御業を見たのです。モーセが手を挙げた時に紅海が分かれ、その分かれた海の底を歩いて向こう岸に渡り、神の偉大な御業を見たのです。更に、彼らが渡り終わった頃に水は戻り、そして彼らを追いかけてきたエジプトの全軍隊が戦車もろとも海の藻くずと消えていったのです。この大いなる神の御わざを感謝し、思い起こすわけです。しかし今はそのことを思い起こすよりもこれから行われる神の御わざを見よと、言われているのです。

 私たちにとっても、詩編103:2「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」とのみ言葉からするなら、18節の「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。」とは何か矛盾を覚えるかもしれません。ただ、ここでいうところの「思い出す」「思いめぐらす」は、当時の彼らの状況、からするなら「踏み出す。」あるいは「前を向く」というよりは懐古的にならざるを得ない事であったようです。ですから主は、19節で「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。」と、視点の転換を求められるのです

② 「主は新しいことを行う」
 まず主は、新しいことを行う事へ、彼らの信仰の目を向ける事を教えられます。それは、「今」という時の中で「芽生えている」というのです。植物を育てた事のある方ならご存じの事と思います。種を蒔いたあたりを注意深く見る時に最初の小さな芽生えを見つけることが出来ます。人が困難な状況下の中にある時、つまり現実の状況に心奪われ行き詰まりを覚える中にあって、主が私たちに「見よ」「新しいことを行う」と言われ、主の方へ信仰の眼差しをむける事を導かれるのです。そして、その主は19節「わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」20節「…わたしの選んだ民に水を飲ませる…」と約束してくださるのです。


③ 「私たちを主の栄誉を伝える者として下さる主」
 このように導かれる主は、荒野にあっても、主の大いなる御業を私たちにあらわされるにとどまらず、私たち自身をも慮(おもんばか)り、水を飲ませ生かして下さるのです。そのことを通じて、私たちは、主をあがめ褒めたたえるものとなり、主の大いなる御業を伝える者となる。そのことを、主は私たちに期待しておられるのです。

 「荒野」は、今の時代も大なり小なり存在し、時として、私たち自身、渦中にあって翻弄されそうになることがあります。そのような中にあっても、「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」ことのおできになる主を仰ぎ見て、日々の歩みの中で「小さな芽生えを」見ることが出来、分かち合うお互いとさせていただきたいものです。


東京聖書学校吉川教会 原田のぞみ牧師
(はらだ のぞみ)
 





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