2025年3月のみことば |
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(新共同訳) (コリントの信徒への手紙一 13章13節) |
信仰![]() 人が霊的な世界に目が開かれるのは、死という現実に向き合う時でしょう。今まで元気だった人が事故や病気などで突然亡くなると、その人の霊魂はどうなったのかを考えます。死者との区切りをつけるために弔う儀式が生まれ、霊魂の不滅を信じ、墓を作ります。古代の人にとって自分が忘れられるのは耐えがたいことで、子孫の繁栄を願い、自分の名を残そうとします。世界の民は例外なく多神教の世界に住んでいます。 神は多くの民の中からカルデアのウルに住むアブラハムを選ばれ、語りかけられました。今から四千年も前のことです。チグリス、ユーフラテス川の合流する少し手前にあったウルは当時の世界都市でした。学校、図書館、裁判所などがあり、高度の文化が生まれていました。麦の栽培により定住化が進み、河川の治水、灌漑などのため水理学や天文学が発達しました。 アブラハムと家族は都市化という時代の流れに逆らってウルを出立し、川の上流にあるハランに向かいました。その理由は多神教の世界を嫌ったから、と言われます。しかしハランの地も月神を中心とする多神教の地でした。神はアブラハムにハランを出るように言われ、土地、子孫、祝福を約束されました。それは彼の子孫によって国を立てるという約束でした。彼はその言葉を信じ、カナンの地を目指しました。この神こそ無から天地を創造されたお方でした。 この宇宙に初めがあることは終わりがあるということで、それにより時間が生まれ、単なる繰り返しであった出来事は歴史になりました。この世界には目的があり、神が支配しておられるのです。アブラハムからイスラエルの民が生まれ、この民に神はモーセを通して神殿と律法(十戒)を与えられました。律法は神が約束された神の国の憲法であり、法律です。神殿は律法を犯した民が悔い改める場所で、動物の血で神への贖いとしました。 どこの国や民であっても良いことをすれば祝福され、悪いことをすれば罰を受けると信じています。しかし、ユダヤ教ではそれらのことが明文化され病気、障がい、そしてあらゆる不幸なことはすべて罪の結果です。反対に、人生におけるあらゆる善いことは神の祝福です。 ユダヤでは律法を学んだ人たちが民の指導者となり、王と共に国を支配するようになりました。また神殿を神聖視したため、この土地を巡って他民族、他宗教との間に妥協の出来ない争いが生じ、今日にまで及んでいます。しかし、多神教のこの世界に一神教を信じる民が生まれたことは画期的なことでした。一神教を信じるユダヤ人の「信仰」には強いものがあるため、ユダヤ教に改宗する異教徒も多くいます。キリストへの「信仰」は二千年前、ユダヤ教から生まれました。 希望 キリスト教は旧約聖書(ユダヤ教徒ではこの書だけが”聖書”です)と新約聖書を用います。旧約聖書はメシアの到来を約束し、新約聖書ではメシアの到来を教えます。メシアはヘブル語で「救い主」を意味し、ギリシャ語ではキリストです。ユダヤ教徒は主イエスをメシアと ![]() 主イエスは御自身を神とし、人々の病気、障がいを癒され、自然を支配し、人々の罪を赦されました。そして人々の礼拝を受けられました。礼拝は神だけに捧げられるものなので、ユダヤ人の指導者たちにとっては受け入れられないことでした。彼らは主イエスを神を冒涜する者として裁判にかけ、十字架に付けました。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21章22節)と書かれており、主イエスは神でないことが証明されました。 しかし、主は三日後に復活され、40日に亘って聖書を開いてご自身のことを弟子たちに解き明かされ、天に上られました。その時、弟子たちに天から再び来られることを約束されました。召天から10日後弟子たちに約束の聖霊を注がれました。聖霊を受けた弟子たちは世界に出て行き福音を宣べ伝え、今日に至っています。 神の子である主イエスの来臨によって律法と神殿の役目は終わります。律法はわたしたちに善悪を教えるため、それによって他人や自分を裁くようになります。主イエスの十字架はそのようなわたしたちに罪を明らかにして赦し、新しい人に造り変えます。 主イエスの死と復活は、わたしたちの死生観を確かなものとします。アブラハムへの神の約束は、この世の国の樹立でしたが、主イエスによりその約束は天の国へと変わりました。キリストを信じる者は土地争いから解放され、新しい天と地を受け継ぐ希望が与えられるのです。その「希望」の故にわたしたちは救われています。 ![]() 愛 主イエスは弟子たちに「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました(ヨハネによる福音書15章13節)。主イエスは罪の奴隷であったわたしたちを解放し、天の国の民とするために御自身の命を捨てられました。 弟子のペトロは十字架に向かって歩まれる主イエスの身を案じて止めようとしました。わたしはこの人を知らない、と言って裁判の席につけられた主イエスを三度も否み、自分の身を守ろうとしました。復活された主はペテロを咎めることなく、わたしを愛するか、と三度も問われました。多くの人は主イエスを愛することも、人を、あるいは自分さえ愛することは出来ません。しかし、主イエスを知ることによりその「愛」を知ります。主イエスは善い行いで救われなさいと言われるのではなく、あなた方のためにわたしのしたことを信じなさいと言われます。 |
川越教会 木ノ内一雄牧師 (きのうち かずお) |
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