2025年4月のみことば |
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。 (コリントの信徒への手紙一 15章1~49節) |
かなり前の話ですが、私は気象庁に電話で「今年の春分の日のあとの最初の満月の日を教えて下さい」と尋ねたことがありました。そうしましたら、「その件につきましては、東京天文台に聞いて下さい、電話番号は○○○○です」という返事でしたので、すぐに東京天文台に先ほどの質問をしましたが丁寧に対応してくださいました。それで私は、このまま電話を切ってしまうのが惜しくなりましたので、「ついでに来年以降の10年分も教えてください」と言いましたら、それもスラスラと答えてくださいました。![]() イースターは毎年日にちが違います。ちなみに、ご存じの通りイースターの日にちは「春分の日のあとの最初の満月の最初の日曜日」と決められています(325年 ニカイヤ公会議)。今年2025年は、春分の日のあとの最初の満月は4月13日ですから、その満月のあとの最初の日曜日は4月20日ですから、今年は4月20日がイースターとなるわけです。イースターの時期になりますと以上のような出来事をいつも思い出しますので若干お話しさせていただきました。 さて、聖書をみていきたいのですが、十字架とは人間として呪われた不名誉な死に方でした。おまけに、主イエスは人から見捨てられただけでなく、神さまからも見捨てられたのです。なんともやりきれない気持ちにさせられてしまいます。弟子たちに至っては、そんなみじめな先生の姿を見るに忍びなかったのでしょう。逃げてしまいました。 ところが聖書は最後にどんでん返しを記しています。一日置いた日曜日の朝、主イエスは復活したというのです。復活した主イエスは何人かの者に姿を現したのでした。 でも不思議なのは、いったいどんな姿で復活されたのかということです。一番古い復活の証言は、主イエスの復活後に弟子となった使徒パウロが書き残した手紙の中に書かれています。コリントの信徒への手紙(一)〔以下、「Ⅰコリ」〕15章3節以下です。5節以下に「現れた」という言葉が出てきます。一体どんな姿だったか。 44節に「霊の体が復活する」とあります。「霊の体」って一体どんな体でしょうか。幽霊みたいに足がないとか、なんだとか、そんなことも分かりません。パウロが書き残した手紙の少しあとに、福音書が書かれていますが、福音書では生前と同じ姿に見え、同じように生きていたとかかれています。ヨハネ福音書に至っては、弟子たちと一緒に魚を食べたとさえ書かかれています(21章)。ところが、ルカ福音書では、途中でパッと姿が消えたとも書かれています(24章31節)。いずれにしましても、主イエスは復活の体をとって現れたのです。その体がどのようなものか分かりませんが、体をもって復活したのです。 ![]() ところで、主イエスは、私たち罪人の身代わりとなって十字架におかかりになられましたが、そのイエスさまの十字架の死が私たち罪人の罪を贖う、罪を償うことを信ずると救われるとの福音に与らせていただくわけですが、主イエスの十字架が本当に私たちの救いとなるには、イエスさまが神の御こころをきちんと実行したことが証明されなくてはなりません。では、その証明は誰が何をもって証明するのかが問われます。 答えは、御父が御子を復活させる事をもって証明とするという事です。御父の御計画は、ことごとく主イエスにおいて然りとなる(Ⅱコリ1章20節)、つまり神の御計画は主イエスにおいて全て成就されたという事です。御父の御こころは主イエスの十字架においてことごとく実行された。だから御父は主イエスを復活させたのです。 ですから、フィリピの信徒への手紙の2章以下にこう書かれています。キリストは十字架にかけられ無残な死に方をしたけれども、神様の使命に徹底して従順であったので神様はキリストを神様の元に引き上げて栄光をお与えになったというのですね。十字架という最も恥ずべき、最も呪われた死のあとに、神様の完全な勝利があったというのです。 主イエスの十字架の死は決して呪われた死、無残な死ではない。人間に代わって神様の罰を受け、人間を救い出したという意味をもっています。 次に、その主イエスの復活は事実なのかについてです キリスト教信仰にとってキリストの復活の真偽は大切です。使徒パウロはⅠコリ15章15節で、キリストの復活が嘘ならばキリスト教は崩壊すると言っております。なぜなら、嘘ならば私たちは神の偽証人となるからですと。 では、何を根拠にキリストは復活したと言うのか。 それは、証言を根拠としているのです。例えば、空っぽの墓を根拠にしているのではないかと言えば、それはそうなのですが、それだけでは状況証拠でしかありません。根拠としては弱い。やはり、復活の主イエスにお会いしたと言う証言が根拠となります。 そのことについてパウロは先ほどのⅠコリ15章5~8節でこう述べています。「ケファに現れ、その後12人に現れた……次いで500人以上もの兄弟たちに同時に現れました……次いでヤコブに現れその後すべての使徒に現れ、そして最後に月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と。 私たちは、上記によって、使徒の証言に根拠を置いて復活を事実であるとするのです。つまり、空っぽの墓及び復活のイエスさまにお会いした事実の証言に根拠を置いて主イエスの復活は事実であるとするのです。 ところで、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体をして来るのか」と言う問いがあるわけですが、それに対してパウロはⅠコリ15章35節以下でこう答えています。 パウロは、主イエスが墓から出てきた生き返った死体だとは言いません。こう言うのですね。種と苗のたとえで言います。種と苗は同じだが違うのだと。人間の体は地上に蒔かれた種である。地上に生きる人間は種として蒔かれた体なのだと。その種は全く違った苗の形で実現するのだと。見掛け上は違うが同じであると。人間は地上に蒔かれた種。それが苗、即ち霊の体として復活するのだと。一回聞いただけではわかりずらいですが、種は苗として復活するのと同様に、人間として地上に蒔かれた種は霊として復活すると言うのです。 繰り返しますが、パウロは、復活するのは元の肉体ではないのだと。死んだ過去に戻って復活するのではないのだと。死んだ過去に戻って生き返ったのはラザロの復活で、それは本当の復活ではないのだと。ラザロの復活の場合、復活の一部を垣間見せるために、主イエスは予兆として実現したのだと。本当の復活は、過去の人間が復活するのではなくて、その人の永遠化された体として復活するのだと言うわけですね。 ですから、パウロの理解では、神は死者の特徴や記憶を与えた「霊的な体」として人を創り直すのだと言うのです。 それでもよく分からない人がいるはずです。そんな人に対してパウロは、よく分かろうとする人こそが愚かなのだと言っているのです。 確かにみんな聞きたがると思います。教会ならなおさらです。〈イエスさまが我々の復活の初穂となってくださったのだから我々もよみがえるはずだ〉(15・20~22)と。だったらどのように復活するのだろうか、どのような体で来るのだろうか、みんな好奇心を持つはずです。 でもパウロは、繰り返しになりますが「愚かな人だ」と言うのです。パウロは復活させる力をもたらすおかたを忘れてはいませんかと言うのです。49節「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」と。つまり私どもはキリストのものになるのだと言うのです。キリストのものになったとき、命は向こうからやって来るのだ、実体は向こうにある。あなたの中から来るのではないのだと。だから命そのものである主イエスを信じ続ければよい。あとは主イエスにお任せすればいいのだと。 その通りでしょう。とは言え、私たちは復活についてもっと積極的な希望を得たいのです。なぜなら私たちは皆死にますから、死んでも生きる希望に与りたいのです。先ほど述べましたが、キリストは甦られた、それによってキリストを信ずるものは甦るとの言葉がありましたが、パウロはまた、主イエスの復活によって、主イエスを信ずる者たちも罪と死の支配から解放されて新しい命に生きることを得させていただけるとの主旨のことを語っております(ロマ4・25)。 繰り返しになりますが、復活を信じても死にます。それでも聖書は言います。復活を信じる者は甦り、永遠の命を得ると。つまり、復活は生き返ることではない、全く新しい体として生きることなのだと。ですから死んだっていいのです。キリスト者にとって死はないのです。やがて地上の懐から出て行って永遠の命に生きるのだと。 ![]() 「今・ここでの復活」というのは、将来復活しますよというのではなく、もうすでに復活しているのだということを強調しているのです。主イエスを信ずることによってもう復活しているのだ、新しい命に生かされているのだということです。 『罪と罰』がどのような小説かはお分かりかとは思いますが短くご紹介しますと、大変頭の良かった貧乏な元大学生ラスコリニコフが主人公です。彼は、この世の中は〈非凡人〉と〈凡人〉によって成立しているのだ。〈非凡人〉は何かする場合、〈凡人〉を将棋の駒のように自由に使ってもよいのだ。それに〈非凡人〉は法律を守る必要などないし、逆に法律を無視して犯罪を行うことさえ許されるのだと考える。例えば、戦争はある意味犯罪かも知れないが国民の利益になるのなら戦争を行うのは義務でさえあるのだと。で、犯罪を本当に実行してしまうのです。 この後どうなるのか。ラスコリニコフは金貸しの老婆からカネを借りています。彼はその金貸しの老婆を殺害して金品を奪おうという空想を持ちます。そのような時、ラスコリニコフは身内の結婚式のことやなにやで絶望的な気持ちに陥ってしまうのですが、ついに今まで抱いていた空想を実行してしまいます。金貸しの老婆を殺害してしまったのです。そしてつい成り行きで老婆の親戚の娘まで殺害してしまったのです。で、犯行後、彼は自分の犯行を隠し通すことが出来ないのです。じわじわと追い詰められていきます。 そんな彼のもとに一人の若い女性が現れます。ソーニャという大変信仰心の篤い女性でした。彼女は酒におぼれがちの下級官吏の娘で、家族を養うため娼婦の境遇にいます。 二人は惹かれあいますがラスコリニコフは自分の犯行については彼女に言いません。しかし、内面の苦しさからソーニァにラザロの復活の聖書個所を読んでくれと頼みます。ラスコリニコフは、うすうす、自分が〈非凡人〉どころか「シラミ」に過ぎないと気づき始めるのですが、どこにその出口があるのか見つけることができません。それに比べるとソーニャは、たとえ自分の今の境遇が絶望的であろうと神という希望の出口を疑いません。 ラスコリニコフはそんな彼女に心が揺さぶられ彼女に犯行についての一切を告白してしまうのでした。ところが、まずいことに、その会話を聞いていた男がいたのです。この男はラスコリニコフの妹をつけ狙っていたごろつきのスビドリガイロフという男でした。彼はこの話をネタに再度ラスコリニコフの妹に愛を迫るのですが拒絶されピストル自殺してしまいます。 ラスコリニコフはどうなったか。解決できない状態のまま彼は「オレはスビドルガイロフのように自殺ですべて解決してしまうこともできない」と煩悶しつつも、ついにソーニャのすすめにしたがって自首するのですが、それでもなお自分の罪を自覚することができません。それで結局、回心が訪れるのは流刑されたシベリアの地でのことでありました。 ラスコリニコフはラザロの復活(ヨハネ11・17∼44)の聖書個所をソーニャに頼んで読んでもらいました。25、26節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも決して死ぬことはない」。 彼はこれまでこの現実に憎悪をもって応えることが正しいのだと考えていた。しかし今やソーニャのように主のみ言葉の中で生きる新しい生き方に希望を見出そうとしている。 主イエスは信ずるものは死から命に移っていると語ります。将来移りますよと言うのではない。もうすでに移っていると語っている事を再度思い起こしたいと思います。 |
鳩山伝道所 藍田修牧師 (あいだ おさむ) |
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