2025年5月のみことば |
教会の土台
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」 エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。 (列王記上17章1~7節) 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 (マタイによる福音書7章24~27節) |
私たちの信仰にとって最も重要な問題とはなんでしょうか。それは「十字架上で死なれた御子イエス・キリストが甦られ、今も生きておられる」ということです。復活の使信は主が死から生き返ったという2000年前の過去の出来事を伝えているのではありません。そうではなく、福音書が記され、またパウロが幾つもの教会に手紙を書いた当時から、それは数年、数十年前の過去の出来事としてではなく、今現在の出来事として明確に示されているのです。 パウロはコリントの信徒への手紙一 15:12~19で「死者の復活」について語ります。この箇所を原典の文法(現在完了形)に忠実に翻訳すると以下の様に読まれなくてはなりません。「そして、キリストが復活して今、生きていないのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。・・・そして、キリストが復活して今、生きていないのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」十字架は過去の出来事です。一方キリストの復活は、誤解を恐れずに言えば、今現在の出来事なのです。 主イエスが甦らされるという神の行為自体は過去の出来事であり、その一点だけを語るならばキリストが死んだという動詞と同じ様に過去形を使えばよいのです。しかし実際には(ほんの数例を除いて)、キリストの復活を伝える動詞には過去形が使われていません。特に、聖書の原典のギリシャ語文法における完了形は、その特定の動作が完了したことを伝えつつも、その結果、効力が今も継続して続いているということに最も重きを置く時制なのです。 一例を挙げるなら、仮に「桜が咲く」という動詞があったとして(実際にはそのようは動詞はギリシャ語にはありませんが・・・)それを過去形で言えば、いつの時点かは分からないけれども過去に桜が咲いたという事実があったことを伝えます。一方それを現在完了形で言えば、桜が咲くという行為が完了して、今もその効果が継続している。つまり「今、桜が満開ですよ」ということを伝えるのです。 なんだか、小難しい事にこだわっている様に聞こえるかもしれませんが、実はこの点が重要なのです。それは私たちがイースターを過去の出来事ととして祝うのか、それとも現在与えられている恵みとして捉えるのかという以上に重要だからです。パウロがコリント書で力説している様に、この点が疎かになるなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄、つまりは教会生活そのものが意味のないものなってしまう危険性があります。 教会では、「神が主イエスを私たちに代えて十字架にかけることで、私たちの罪を裁き、罪の赦しを得させ、またその復活により新しい命を与えてくださった」ということが教えられています。この復活により「新しい命を与えてくださった」というのは過去の出来事ではなく、いつの時代も教会にとって今、現在の出来事なのです。 ユダヤ教では、神が人となることは想定されていません。ですから、肉体を持った神の子キリストの存在も、十字架も復活も考えれません。彼らにとって重要なことは、自分たちがかつて神様に選ばれ、モーセを通して与えられた十戒を中心とした、言わば過去の教えには忠実で、生活の事細かなあらゆる側面に到るまでそれを当て嵌めるという熱心さに溢れた宗教生活なのです。このような彼らの生き方は、一見、神を重んじ、神の言葉に忠実に生きようとする模範的な信仰者の生き方のように見えたであろうし、彼ら自身もそうのように自分たちを見ていたことでしょう。しかし彼らは今現在、預言達を通して語られる、今生きて働かれる神の言葉には無頓着であった。そして自分達が生きていた土地、神から与えられた恵みの土地を奪われてしまった。 この様な歴史を踏まえて、同じユダヤ人である主イエスはかつてのモーセ律法を、今生きておられる父なる神の視点からアップデートされるのです。山上の説教と言われる箇所で、主イエスは度々、「あなた方は・・・と教えられている。しかし私は・・・」 と言って、モーセ律法の条文、或いはその解釈を引き合いに出しつつ、モーセ律法よりも数段難しい要求を突きつけてきます。それは、彼らが神の律法を守れることに専ら自らの誇りを見出す一方、肝心の生ける神が蔑ろにされている点を主イエスが問題にしたからでしょう。 一見するとあまりに厳しい要求を突きつける事で、どちらが「主」であり、「神」であるかをあるかを主イエスはハッキリさせたかったのかもしれません。時には弟子達ですら、「それなら、一体誰が救われることができるのですか」と疑問を呈せざるを得ない程の言葉もありました。そして言うのです。「君たちには出来ないよ。しかし神にはお出来になる、何故なら神こそが主なのだから・・」と。主イエスは、一見「主よ、主よ」と唱えつつ、神の御命令に忠実な様に人には見えても、本当は天の父とその御心を行なうことには心が向いていない、彼らの偽善的な姿が見えていたに違いないのです。 「あなた方が人に見られようとして行なっている施し、祈り、断食という宗教的行為が天の生ける神に向けられたものでないからこそ、あなた方は自分の体や命、またそれ等を支える衣食住のことで思い悩んでいるではないのか、救われていないのではないか・・」「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、彼らはあなた方の様に思い煩う事は一切無しに、全てを今生ける神の手に委ねている。だからこそ、あの様に美しく咲き誇り、あの様に養われつつ優雅に空に舞っているのではないか、あなた方は彼らよりも遥かに優れ、愛されているにもかかわらず・・・」主イエスはそう仰りたかったのではないでしょうか。 こういうことを教えつつ、主イエスは、山上の説教の結論として「私のこれらの言葉」を聞いて行う人を岩の上に家を建てた賢い人、聞いても行わない人を砂の上に家を建てた愚かな人に喩えます。ここで注目すべきことは両者共に「主の言葉を聞いて」生きているのです。普段は両者ともに「神の言葉を聞いて」その人生を歩んでおり、何の違いもない様に見える。しかしひとたび雨が降り、川が溢れ、風が襲うと岩の上に建てられた家は無事であっても、砂上の楼閣の方は倒壊し、その有様は酷かったと言うのです。 数年前、私どもの教会は耐震補強工事をしましたが、話は信仰生活における何か耐震補強工事の様なものを施せば良いというものではないのです。問題は土台なのです。土台が違うのです。パウロはコリント教会の人々に宛てて「私は熟練した建築家のように(教会の)土台を据えました。ただ、おのおのどのように建てるかに注意すべきです。(何故なら)イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰も他の土台を据えることはできません。」と述べています。 このイエス・キリストという土台は死んだ土台ではなく、今も生きておられる土台なのです。 このような点に鑑みえば、主イエスがここで言われる「岩」とは「私たちの信仰である」とか「福音宣教」と単純に決め付ける事は出来ないのではないでしょうか。パウロは自らの「福音宣教」により自分はコリント教会の土台を据え、またあなた方はそれに「信仰」をもって答えてくれたことを述べます。しかし教会がいつの間にかその宗教行為の中で、忘れていることがある。それは今生きて働きたもう主イエス・キリストご自身だ、既に据えられた土台だというのです。ちょうど旧約聖書のユダヤ人達が律法に忠実に生きんと熱心でありながら、実際は生けるヤーウェ自身の御心には従わなかった様に、教会も「主よ、主よ」と呼び掛けつつも、実は天の父の御心を行なってはいないことがある。山上の説教で主イエスが「イエスに従ってきた大勢の群衆や弟子達」に教えようとしておられるのは、その様なことなのではないでしょうか。 私たちの教会堂の土台は、普段わたし達が目にする事はありませんし、出来ません。それが岩でできているものか、コンクリートでできている物かは知りませんが、普段は太陽の光を浴びることもなく、半身土に埋れ、ジメジメしてカビが生えているかものかもしれません。でも、教会堂はその土台にいつも、いつの時も支えられているのです。それと同じ様に、既に据えられた主イエスという「教会の土台は」、かつては誰からも顧みられず、人間の罪という暗闇のうちに打ち捨て、墓の中に閉じ込められておりました。しかし神は主を甦らせ、今や、生ける隅の頭石として私たちと共に居られる方、教会を支える生きた土台として据えられたのです。聖日ごとに私たちはその方の体の一部とされたことにこそ誇りを持ち、それに相応しく歩んでいかねばならないのす。そして私たちはお互いに心から笑顔でこう挨拶をします。「イースターおめでとうございます。」と。 |
所沢武蔵野教会 三永旨從牧師 (みなが むねつぐ) |
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