2025年6月のみことば

ペンテコステ

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
                    (使徒言行録2章1~13節)

 序論:ペンテコステとは、ギリシャ語で「50番目(の日)」という意味です。ペンテコステの事を「五旬祭」とも言います。漢字の旬は「10日」の意味ですから、「五旬」は「五十日」という意味です。
 「五十日目」とは何から数えて五十日目なのでしょう。それは、ユダヤ人の大切な祭りである「過越祭から数えて五十日目」という意味です。また、イエス様が死からよみがえられて五十日目という意味です。

 過越祭には収穫の「初穂」を献げました。そして、また収穫の終わりに感謝の祭りをささげました。収穫の恵みを与えてくださったのは「天の神様」だと御名をほめ讃え賛美しました。神様への礼拝は、恵み主なる神様に感謝の献げ物を携えて礼拝する行為です。私たちも、ひと月の働きの収穫、報酬が与えられたとき、与え主なる神様にその「初穂」を献げて感謝します。では、イエス様の十字架から3日目、イエス様が死からよみがえられたイースターから数えて50日目、何が起こったのか聖書から御声を聞かせて頂きましょう。

本論:①聖霊降臨
 イエス様の死からのよみがえりの日イースターから数えて五十日目、五旬祭の日に実際に起こった出来事が、聖書に記されています(1-2)。
 一同が主にあって一つに集まり、祈っていました(1)。120人ほどの人々が一つになっていたと記されています(1:15)。人々は、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」とイエス様に命じられていたからです(1:4-5)120人は皆で心を合わせ「父の約束されたもの」が与えられるよう祈り待ち望んでいました。

 すると突然、聖霊が降臨しました(2)。120人ほどの人々は、いつ聖霊が降るか分かりませんでした。エルサレムを離れないで、期待して祈り続けているうちに与えると言われていた「父なる神様の約束されたもの」聖霊が降りました。突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえました(2)。「風」は旧約において「神の霊」を表しました。今、彼らに圧倒的な力をもって、神の霊が降りました。聖霊はただ「激しい風」の響きだけでなく、「炎のような舌」が1人1人の上にとどまったと記されています(3)。この「炎」は、神の臨在を表します。「神の霊」が祈り求めていた「1人1人の上」にとどまりました。旧約の時代には、限られた人に、神様の働きをすることが出来るようにと「神の霊」が降りました。しかし今や「イエス様の十字架と復活」を信じる1人1人に与えられました。

 では、聖霊が降り、何が起きたのでしょうか。一同は聖霊に満たされました。聖霊のバプテスマです。神の霊に満たされるとは、なんと光栄なことでしょう。恐ろしく厳粛な思いがします。そして“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしました(4)。人の力によるのではなく、神の霊が語らせるままに話しだしました。神様が主語です。神様は人を用いて、ことを成されます。これは預言の成就です。「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。」(ヨエル3:1)
 五旬祭の日には、多くのユダヤ人が神様への感謝を表すために、エルサレムに集まって来ていました。神様の霊が降るペンテコステの出来事を、多くの人が目撃したわけです。神様のなさることは、人には不思議にも見えますが、時に適って美しいです。

②福音宣教
 はたして弟子たちは、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしました。あらゆる国から帰ってき敬虔なユダヤ人、収穫を感謝して初穂を献げる祭りに集まって来たユダヤ人は、大勢滞在していました。その人々の理解できる言語で話しだしました。何を話したのでしょうか。
 神様の大いなる御業、偉大な業です(11)。神の御子イエス様が、この世で何をなさったのか、なさったことには、どういう意味があるのか、今や、その出来事は完了した。旧約で言われていたメシア、救い主は来られた。イエス様が救い主だ。イエス様が、救いの道を開かれたメシアであると話しだしました。

 ペンテコステの出来事に対して、その場にいたユダヤ人たちは、どう捉えたでしょうか。だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました(5-6)。人々は驚き、いったい何が起こっているのかと怪しみました。そして、言いました。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」(7-8) 彼らの話す言葉には、ガリラヤなまりがありました。言葉遣いでそれが分かりました。おそらく弟子たちが、律法学者や祭司たちのような権威ある人々ではなく、無学な普通の人に見えたでしょう。ガリラヤはユダヤの首都エルサレムに遠く、ガリラヤ湖畔の町、田舎でした。とてもほかの国々の原語に精通している人とは、考えにくかったでしょう。

 世界中から来ていた人々は、パルティア、メディア、エラム、メソポタミアというユダヤ東方の地域の人々、エジプト国境からユーフラテス川に至る地域の人々、またカパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアなど小アジアの諸州、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む、今のエジプトに当たる地域、ギリシャに近いクレタ島、シリアとパレスチナの東部の人々など、天下のあらゆる国から帰って来た人々でした(9-10)。そしてローマから来て滞在中の者、ユダヤ教への改宗者でした(10-11)。ローマ人は唯一のヨーロッパ本土からの人々です。そして、この使徒言行録の地理的、目標地点でもあります。ユダヤ教への改宗者は、異邦人ですが、ユダヤ人と見なされました。彼らは、弟子たちの語る何を聞いたのでしょうか。

③教会の誕生
 弟子たちの語る言葉、神様の偉大な業を聞いた人々は、皆驚きました。とまどいました。「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言いました(12)。後の14節から、ペトロが立ち上がり、起こっている出来事の意味を説明しました。そして3000人ほどが、ペトロの言葉を受け入れ、仲間に加わりました。洗礼を受け、イエス・キリストを信じる人々の群、教会が誕生しました(2:41)。

 教会は、聖霊降臨によって、全世界に福音を告げ知らせる働きに用いられました。イエス・キリストがすべての人々の罪を赦し贖うために十字架で死に、葬られ、3日目に死人のうちよりよみがえり、永遠の命に生き、御国に戻られた。この主イエスを信じる者は罪を悔い改めて、主イエスとともに十字架で死に、主イエスとともに罪の報酬である死からよみがえります。教会は、このように豊かな内容を持つ福音を伝達する働きを委ねられています。イエス様が宣べ伝えておられた福音を、今や、聖霊降臨を受けた弟子たち、また信じる人々に委ねられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われたイエス様のみ言葉が成就しました(1:8)。

 しかし、聖霊が降ったとき、すべての人がイエス・キリストを信じたでしょうか。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいました(13)。自分の知らない地方の言葉で「神の偉大な業」を語っているのを聞いている時、私たちは何を言っているのか分からないわけですから、でたらめを話しているのではないかとあざける人がいても、おかしくないのです。福音宣教のとき、必ずと言っていいほど、批判する人がいます。

 私たちは、キリストにあって罪を悔い改め、復活のキリストの命に与り、生きる者とされましょう。聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、福音を宣べ伝える教会の一部一部とされましょう。

深谷西島教会 竹内成子伝道師
(たけうち なるこ)
 





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