2025年9月のみことば |
彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」
彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。彼はまた聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じた。ヤロブアムはユダにある祭りに倣って第八の月の十五日に祭りを執り行い、自ら祭壇に上った。ベテルでこのように行って、彼は自分の造った子牛にいけにえをささげ、自分の造った聖なる高台のための祭司をベテルに立てた。彼は勝手に定めたこの月、第八の月の十五日に、自らベテルに造った祭壇に上った。彼はイスラエルの人々のために祭りを定め、自ら祭壇に上って香をたいた。 (列王記上12章28~33節) |
![]() 神様を礼拝する正式な場所はエルサレム神殿だったのに、わざわざ北イスラエルに別の祭壇を作り、金の子牛という偶像を造ったのです。しかも、正式な祭司ではない人を選んで祭壇に仕えさせ、お祭りの日付まで勝手に変更してしまいました。しかし、ヤロブアムの考えは、ある意味とても合理的でした。 「神様が近くにいるなら、わざわざ遠いエルサレムまで行く必要があるの?」 これは現代でも同じような問題があります。例えば、ニューヨークでの宣教師時代にこんな質問をする人がいました。 「日本にも宣教が必要なのに、なぜわざわざ海外に行くんですか?近くで宣教する方が交通費もかからないし、効率的じゃないですか?」確かに人間的に考えれば、その通りです。しかし、イエス様は弟子たちにこう言われました。 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19) 最初、弟子たちは怖くて家に引きこもっていました。でも、イエス様の復活と聖霊の力によって変えられ、命がけで宣教を始めました。迫害が起こってエルサレムから散らされると、今度は外国人にも宣教をするようになりました。聖霊は弟子たちを常に「外へ、外へ」と導いたのです。そして、その結果、キリスト教は世界中に広まりました。慣れ親しんだ場所から出て、未知の世界に踏み出すとき、これまでにない神の臨在を体験することがあります。 これは教会生活でも同じです。洗礼を受けた教会が一番居心地が良いものです。でも、転勤や引っ越しで教会を変えざるをえないこともあります。そんなとき、違った背景を持つ人たちとの出会いが信仰の成長につながることがあります。初代教会でも、様々な信仰背景を持つ人たちがいました。でも教会は、違いを排除するのではなく、むしろ受け入れ合う道を選びました。その多様性が教会の豊かさと成長の原動力になったのです。 では、なぜ神様はエルサレムでの礼拝にこだわられたのでしょうか? レビ記17章を見ると、その理由が分かります。当時、イスラエルの周りには、偶像に生贄を捧げる民族がたくさんいました。もし各自が勝手に近くで生贄を捧げたら、本当の神様ではなく、偶像に捧げてしまう危険性があったのです。 ![]() お母さんの料理がおいしいのは、単に味が良いからではありません。「愛情」がこもっているからです。時間をかけ、手間をかけて作ってくれたからです。心理学の研究でも、「その人のため」という思いは、味覚にも影響することが証明されています。イエス様がこの世に来られた方法も同じです。もし効率を考えるなら、エルサレムの王宮に生まれ、華々しく登場すれば良かったはずです。でも実際は、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、最後は犯罪者として十字架で死なれました。 なぜでしょうか? 使徒パウロはその理由をこう語っています。 「キリストは神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。へりくだって、十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8) なぜ神様はそんな面倒なことをされたのでしょうか?それは「神は愛」だからです。真の愛は、決してコンビニのように便利なものではありません。愛は極めて不便で、犠牲を伴うものなのです。愛には色々な種類があります。自分の欲求を満たす「自己愛」もあります。でも聖書が「神は愛」と言うときの愛は、「アガペー」という言葉が使われています。これは「自分の利益を求めず、他者のために犠牲を払う愛」という意味です。 教会で気をつけるべき間違った態度が二つあります。一つは、自分が正しいと思い込んで強く主張することです。これは時に教会を破壊します。なぜなら、教会は「正しさ」をシェアする場所ではなく、「愛」をシェアする場所だからです。 ![]() 溺れている人が自分の髪の毛を掴んで自分を救うことができないように、私たちも自分の力だけでは救われないのです。だからこそ、私たちは「コンビニエンスな場所」から離れ、神様だけを頼りに歩んでいかなければなりません。そこに、イエス様が示してくださった「自己無化」を通して与えられる、本当の命の道があるからです。 便利で楽な道ではなく、時には困難で不便でも、神様と共に歩む道、それが私たちに与えられた真の信仰の道なのです。 |
行田教会 西川晃充牧師 (にしかわ あきみつ) |
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