| 2025年10月のみことば |
| わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 (ヤコブの手紙2章1~17節) |
今日与えられました聖書はヤコブ2章です。「世の価値観を教会に持ち込む人々」への戒めが語られています。当時、集会で富める者は丁重に扱われ、貧しい人は軽視されるという現実がありました。1節―4節に着目します。ヤコブは記します「私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(2:1)。ヤコブは具体例を引いて諭します「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2:2-4)。 仮に私たちの教会の礼拝中にホームレスの方が汚い服装で入って来たら、私たちは眉をひそめてしまうかも知れない。ヤコブの指摘は当たっています。私たちは世の価値観をそのまま教会内に持ち込んでいます。「それがキリスト者としてふさわしい行為なのか」とヤコブは問いかけているのです。 ヤコブは語ります。2:12-13「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」。パウロも語ります「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)。「愛は隣人に悪を行わないのに、なぜあなたは教会の中で貧しい人を辱めるのか、あなたの信仰はどこにあるのか」とヤコブは問いかけるのです。 行いのない信仰は死んだ信仰だとヤコブは語ります。2:15-17「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。 そして24節で「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と結論します。パウロは「人は行いではなく、信仰によって義とされる」(ローマ4:24)と語ります。ヤコブの考え方はパウロと異なるのでしょうか。しかしヤコブも「行いが人を救いに導く」と語っているのではないのです。救われた者はどの様に生活すべきかをヤコブはここで述べており、だから「行いの伴わない信仰は死んでいる」と語るのです。 社会生活、教会生活等の中で、「教会はこうあるべきではないか?」「信仰者は互いに愛し合わなければならない!」等と立派なことを言いながら、何も実行しない人は多いです。遠い大学時代、学園紛争盛んな時代で、様々な場所で議論が繰り広げられました。立派な持論を拡声器で張り上げていた学生、目の前で機動隊との衝突で大きな火傷をした学生仲間達が苦しんでいましたが、看病することなく我先にと逃走してしまいました。神学を学んでいた学生でした。 その頃、ある先輩から「人間は行動だぞ、口で立派なことを言っていても、何もしないから気を付けろ」と良く言われていました。その様な中で与えられたみ言葉がヨハネの手紙一3章18節です。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」です。当時新見宏先生の講義をお聞きする機会に恵まれました。先生はヨセフスの「ユダヤ戦記」の翻訳をされていたようです。「愛について」をテーマに話されました。ヨハネの手紙を引用して「信仰と行い」を結論に語られたことを思い出します。 「行い」の実践例を見てみたいと思います。名古屋入国管理施設におけるスリランカ女性の死をめぐって、難民を犯罪者のように収容する入管法の改正議論が高まっています。移民や難民は聖書では「寄留者」と呼ばれます。寄留者や孤児は誰にも頼ることができない弱い立場におり、その権利は絶えず脅かされています。「寄留者を大事にせよ」と旧約聖書は繰り返し語りますが、現代では「難民を大事にしなさい」と読み替えるべきでしょう。 ヤコブが語るように「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさいといいながら、そのために何の行為もしないことは聖書の教えに反する」行為なのです。神は私たちに、「目の前に困窮と苦しみの中にいる人がいれば、その人に愛の責任を負いなさい」と命じておられます。 それを現実の政治の中で実行したのが、ドイツのメルケル首相です。2015年以降、シリア内戦のために1400万人の難民が生まれ、隣国トルコやパレスチナでの受け入れが限界に達し、数百万人の難民が欧州に流入しました。欧州各国は難民を受け入れましたが、やがて「限界だ」として新しい難民の受け入れを拒否しました。「彼らはかわいそうだが、私たちの暮らしも大事だ」と。その中で、2015年、ドイツはメルケル首相の下で、100万人のシリア難民受け入れを表明しました。 国内では激しい反対意見もありましたが、彼女はそれをドイツ基本法に基づいて行いました。メルケルは語ります「我々の憲法は人間の尊厳を基本としている。この尊厳は我が国民だけに保障されているのではなく、外国人にも認められている。つまり、彼らが我が国に入ってくるなら、我々は彼らを快く受け入れ、憲法の保障する人間の尊厳の実現に全力をあげなければならない。我々にはそれがやり遂げられる」と語った。 ドイツが亡命申請者に対して寛容な態度を取る背景には、ナチス時代の反省と悔い改めの中で、戦争や政治的迫害に苦しむ市民に対し積極的に手を差し伸べるという「理念」があります。ドイツの憲法である基本法第16条A項は、「政治的な迫害を受けている者には亡命権を与える」と明記しています。亡命権を明文化していない日本国憲法との大きな違いです。しかし日本も先の大戦で中国やアジア諸国に対して重大な侵略行為をしています。その償いの視点から、何らかの施策をする必要があると思います。 メルケル首相は2018年に「私の信仰~キリスト者として行動する」(邦訳:新教出版社)という著作を出しています。彼女においては、ドイツの政治的課題、すなわち経済政策、難民対策、環境問題、グローバル化、安全保障など、さまざまな問題への取り組み姿勢の根底に、確固たるキリスト教信仰が存在しており、信仰と行動がしっかりと結びついています。そこには、「信仰か、行いか」という二分法で立ち止まる人の陥りがちな曖昧さや停滞はありません。信じることと行動することが一体化しています。変化を恐れず前向きで、実にきっぱりしていています。彼女もまた、ヤコブが述べるように、「行いの伴わない信仰は役に立たない」と考えていると思えます。他方、日本は難民受け入れに極度に消極的で、毎年1万人の難民申請に対し、認定が50人前後と言われています。日本の制度では、難民認定の実務を法務省入国管理局が担い、難民を「助ける」というより、「取り締まる」という視点が強いのです。先にメルケル首相は語りました「ドイツの憲法は人間の尊厳を基本としている。この尊厳は我が国民だけに保障されているのではなく、外国人にも認められている。つまり、彼らが我が国に入ってくるなら、我々は彼らを受け入れ、憲法の保障する人間の尊厳の実現に全力をあげなければならない」。と言っています。 ドイツ憲法の考えの根本にあるのは聖書の戒め、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えです。日本人は聖書を知らないし、隣人愛の大切さも知らないのです。ですから、憲法を自国民のみに適用するとしているのです。まだキリストを知らない人々、無関心な人々に対して、少数者である私たちキリスト者が「キリストの言葉と生き方を知らせる」役割を与えられているのは確かです。隣人を愛しなさいと言われる主イエスの教えを信じつつ実行して参りたいと願うものです。祈りましょう。 |
| 川口教会 本間一秀牧師 (ほんま かずひで) |
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