2025年11月のみことば

重い皮膚病を患っている十人の人をいやされた

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。:ある村に入 ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り 上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言 われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを 知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝し た。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではな かったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさ い。あなたの信仰があなたを救った。」
                    (ルカによる福音書17章11~19節)

1. サマリアとガリラヤの間を通られたイエス様
 11節に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」 サマリアを通過して行けば直線距離で速くエルサレムに到着することができますが、当時サマリ ア人とユダヤ人は仲が悪かったので、イエス様一行は両地域の境界線に沿って移動していまし た。両者の仲が悪いことはヨハネの福音書でイエス様とサマリア女との対話でも明らかになって います。そして、ルカの福音書9章でもサマリア人たちがイエス様の一行が通って行くのを許さな かったので、サマリア村に入れなかったと書き記しています。

 サマリア人とユダヤ人の間にある敵対心は、ソロモン以降イスラエルが南と北に分かれることか ら始まりました。北のイスラエルがアッシリアによって先に滅亡した後、占領地に対するアッシ リアの混血政策によってイスラエルの血統が紛れてしまい、ユダヤ人はサマリア人が同族イスラエ ルではないと思うようになりました。そしてユダヤ人が再びエルサレムに帰還して神殿を建築 し、エルサレムを再建する時も、ユダヤ人はサマリア人の参加を許しませんでした。そしてサマリ ア人がゲリジム山に自分たちの神殿を建てた時、ユダヤ人は来て彼らの神殿を壊したこともあり ました。このような相互間の挑発と攻撃はお互いに深い傷痕と憎しみを深め、これがイエス様の 時代まで続いていたのです。

 12節に、イエス様はある村に入られましたが、そこで重い皮膚病にかかった人々に出会いまし た。おそらく、彼らは病気によって自分たちの故郷に住むことができず ユダヤ人もサマリア人 もこの人里離れた辺境で一緒に住むことになったでしょう。重い皮膚病によって、もはや自分が どこの出身であるかは重要でなくなったのです。重い皮膚病も罪もユダヤ人やサマリア人を区別 せず襲うのです。人の出身地や所属は、重い皮膚病から人を守る防御策にもならずまた人が癒さ れる理由にもなりませんでした。
13節、重い皮膚病を患っていた者たちはイエス様に声を高めて求めた。「イエスさま、先生、ど うか、わたしたちを憐れんでください」

2. みんなを癒すイエス様
 14節に、主は彼らを見て憐れみに思われました。そしておっしゃいました。
 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」
 主は彼らがユダヤ人なのかサマリア人なのか区別せずに、皆の癒しを宣言しました。彼らはこの 言葉を受けて動きました。癒しを信じて行動したのです。すごい信仰ですね。
 彼らはどこに向かって行ったのでしょうか?

 彼らはそれぞれ自分の故郷の祭司長に向かって行ったはずです。祭司長から先に自分の皮膚病が 癒やされたことを確認してもらった後、最終的にユダヤ人ならエルサレム中央神殿に、サマリア人なら中央神殿のあるゲリジム山に行き、それぞれの清め儀式を通じて完全な治癒を認められ、 自分の家族に戻ることができました。
 彼ら全員が祭司長に行く途中で、自分の皮膚病が癒やされたことに気づきました。

3. イエス様に戻ってきて感謝したサマリア人
 15~16 節、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」
 サマリア人は受けた恵みに感謝し、癒された後すぐに神様に栄光を捧げ、イエス様のところに 戻って感謝を表しました。彼はこのようにイエス様を信じて、主との良い関係の中で生きる人生を得ることになりました。感謝する態度は、より大きな感謝の生活に導きます。彼はイエス様に 属した者として生きるもっと大きな祝福を得たのです。ヨハネ福音書4章のサマリア女のよう に、彼も自分の町に戻ってはイエス様が行ったことを証ししながら生きたのに違いありません。 そして恵みを受けた者として一生感謝しながら、自分を癒してくださった神の御旨が何であろうか と考えながら、その恵みに相応しく生きたでしょう。

 我々に適用してみましょう。私はイエス様に会って得た救いの恵みを本当に知っているのか?罪 の赦しと永遠の命を受けた御恵みを経験したのか?この救いは、重い皮膚病に患った病者が癒し てもらったことよりもずっと大きな恵みではないでしょうか?なので、神様に一生涯感謝する人 生を生きるべきではありませんか?
 「・・赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカによる福音書7章47節)とイエス様は言われま した。その通りです。この世の誰が十字架の恵みで得た永遠の命を軽んじることができるでしょ うか?イエス様は、この世に来られて、罪によって滅びの中にあった私たちを救って下さいまし た。

4. イエス様が望まれたこと
 17-18節、「そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人は どこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
 プレゼントをもらった時、それを喜び、プレゼントをくれた人に感謝の気持ちを表現するのが常識です。好意を示したのに、恵みを受けたのに感謝がなければ、それを施した人の心はどうで しょうか?恵みをいただいたのに、それを当たり前のように思う人がいれば、恵みを与えた人の 気持ちはどうなるでしょうか?多分傷つけられ、恵みと感謝が分からない者であると言うでしょ う。

 17節に、「ほかの九人はどこにいるのか」とイエスは尋ねられました。
 重い皮膚病から癒やされた10人から主は何を期待したのでしょうか?みながサマリア人のように イエス様のもとに戻ってくることを期待していました。なぜでしょうか。
 彼らから謝礼を受けるためでしょうか?それを受けて主に何の益があるでしょうか。栄光が増す でしょうか。パウロが、アテネの市民に語ったように、神は何か足りないことでもあるかのよう に、人の手によって仕えてもらう必要もありません。

 「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありませ ん。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」 (使徒言行録17章25節)
 イエス様が、求めているのは、人々の全人的な救いです。この救いは重い皮膚病からの癒しを含み ますが、決してこれに限ることではありません。
 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」と言われた時、主イエ ス様は、癒しだけを求めて悔い改めない人々、神の救いの御業を経験したのに、神に立ち返らな い人々、イエス様をメシアとして受け入れない人々、などに対するもどかしい気持ちを表してお られたのではないでしょうか。

 全人的な救いとは、主が取り除こうとするユダヤ人とサマリア人との間に長く存続している反目 と憎しみから、彼らが自由な生き方を得ることでしょう。イエス様のところに戻って御前にひれ伏し感謝を申し上げたサマリヤ人のひとりが、自身の故郷に戻って以前の姿に戻らず神様の恩寵を受けた者として新しく生きると考えられます。その生き 方が、全人的な救いに近づくことでしょう。しかし、他の9人は、自分が元々属していた共同体に 復帰して、以前と同じく再びお互い反目し、相手を敵にする生活に戻ると思われます。彼らは、イ エス様との繋がりを大事にしなかったからです。

 このようなことは、今でもしばしば見られます。イエス様の御恵みで病気から癒されても、古く 悪い習慣に留まる人々も多くあります。神によって癒された喜びと感動はしばらくの間だけで、ま ことの悔い改めに至らないままで生きる人々もよくあります。

5. 和解のために
 今日のルカによる福音書の言葉と関連して、ヨハネ福音4章でイエス様がサマリア女に会って対話 する場面が思い出されます。
 ヨハネによる福音書4章20~23節
 「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムに あると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、こ の山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝し ているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しか し、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時であ る。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

 ユダヤ人とサマリア人との間に敵意が固着したのは、彼らが違う聖書を持っていたからです。サマリア人はサマリア五書を信じ、ユダヤ人はモーセの五書を信じていました。大きな違いは、十戒の第十番目の戒にありました。サマリア五書の第10戒は、ゲリジム山で礼拝することを命じて います。そしてサマリア人はサマリア五書だけを経典として認め、ユダヤ人が持っている他の旧約の聖書を経典として認めていません。このように異なる経典を持っていて、ユダヤ人とサマリア人はそれぞれ自分が正統性を持っている宗教だと主張し続けてきました。

 しかし、サマリア女との対話の中でイエス様は「救いはユダヤ人から来る」とはっきり言われ て、サマリア五書だけを信じる彼らの主張を退けました。
 また、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と言わ れて、礼拝する場所に対する両者の主張が改革されると言われたのです。そして、「まことの礼拝 をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父は このように礼拝する者を求めておられるからだ。」と言われて、霊と真理をもって神様に礼拝することによって、まさにユダヤ人もサマリア人もそれぞれ従来の信仰から抜け出し、両者が一つになれることを示されたのです。イエス様は、この一致と連合の場を設けましたが、これは、神様がエゼキエルを通して告げられた預言、すなわちユダとサマリアが一つになるという預言です
 (エゼキエル書37章19節)。イエス様は来られて、この二つを和解させて、神の御前で一つにされ たのです。

 最後に、イエス様は戻って来たサマリア人に言われました。
 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 ここでおっしゃる「救い」は、単に重い皮膚病から癒されたことだけを意味していないでしょ う。サマリヤ人は、癒しの以上に、罪の赦しと神様との和解をいただき、神様の恵みの下で生き る新しい命を得たのです。キリストの教えに従って隣人と和解し、種族間にあった根深い不信と 憎悪から自由に生きる新しい命を得たのです。
 また、サマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われて、混血のためサマリア人は神 の民ではないというユダヤ人の主張を覆されました。

東松山教会 崔長壽牧師
(ちぇ じゃんす)
 





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