| 2025年12月のみことば |
クリスマスはなぜ嬉しいのか
| 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 (ルカによる福音書1章26〜38節) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 (ルカによる福音書2章1〜20節) |
● 「メリークリスマス!」「クリスマスおめでとうございます!」私たちはこの季節になると、そのように挨拶を交わします。けれども、もう一度素朴に考えてみてもいいかもしれません。いったい、クリスマスのなにが「めでたい」のでしょうか。私たちは、クリスマスの何を喜んでいるのでしょうか。 12月は年末でもあります。このクリスマスの時期には、今年がどんな一年だったかを考えたりもします。家族が増えた人がいるかもしれません。新しい仕事を始めたり、新たな趣味を始めたりした一年だったかもしれません。 この一年は、どんな一年でしたか。今年を振り返ってみて、まず思い浮かぶのが辛いことや悲しいことだという方もおられるのではないかと思います。大きな病気をした方がおられるかもしれません。親しい方を亡くした方がおられるかもしれません。大きな失敗をして、失意の中にある方もあるかもしれません。このクリスマス、とても「嬉しい」、「おめでとう」などというような気分じゃないという方も、きっとおられるのではないでしょうか。 私たちの生きている世界にもまた、決してめでたくなどない光景が広がっています。戦争は依然として続いています。人と人との争いが止みません。私たちの世界には、とても「メリークリスマス」という挨拶にはふさわしくないかのような現実が広がっているでしょう。 ● この一年が嬉しいことで溢れていた人にも、耐えきれないような出来事を何とかして耐えてきた人にも、同じように時は流れ、このクリスマスの季節が来ました。けれども、たとえ私たちの世界がどのような状況であったとしても、クリスマスは誰のもとにも来ます。それは、この世界に神様が御子を遣わしてくださったという事実が、決して変らないからです。私たちの側に、喜ぶことが出来る理由を見つけられなかったとしても、神様はこの世界に向けて「メリークリスマス」と宣言し続けてくださっています。この神様の一方的な祝福の故に、私たちは喜ぶことができます。喜んでいいのです。 天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1:28)。これは天使の、マリアに対する一方的な宣言です。マリアの側に、おめでたい現実があったからでも、マリアが特別幸せな人だったからでもありません。神様が、マリアを一方的にお選びになりました。マリアの賛歌の中で、彼女はこのように言っています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(ルカ1:46-48)。この「身分の低い」という言葉を、ルターは「とるにたりない」と訳しました。マリアは「とるにたりない」、つまり何も人に誇ることが出来る者は持っていない少女でした。 私たちの人生も、もしかしたら「とるにたりない」ものであるかもしれません。一年が過ぎ去るように、私たちの人生も過ぎ去って行きます。しかし、この「とるにたりない」、過ぎ去っていく人生に、神様が祝福を宣言してくださります。「主があなたと共におられる」。何も持っていない私たちでも、「主が共におられる」。このことに故に、私たちの人生は決して空しいものでありません。そして、この過ぎ去っていく世界も、決して無意味な空しいものではありません。「主があなたと共におられる」。ここに、私たちの人生の喜びのすべてがあるのではないでしょうか。私たちの人生は、神様が共にいてくださる人生です。そして、私たちが生きるこの世界も、神様が共にいてくださる世界です。神様はこの世界に、独り子を遣わして下さりました。この世界は、あの独り子が来てくださった世界です。● 「メリークリスマス」、それは神様からこの世界に与えられた祝福の言葉です。天使は飼い葉桶に寝かされた赤子を指さして宣言します。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(ルカ2:11)。この「救い主」という言い方は、聖書学者によれば、ギリシアの神々や支配者を指して用いられてきた用語だといいます。そしてこの言葉は、皇帝アウグストゥスに対しても用いられていた言葉だそうです。その、皇帝アウグストゥスに対して用いられていた言い方を、天使はあえて用いるのです。あなたたちの「救い主」は、あのきらびやかな宮殿の中にいるアウグストゥスではない。住民登録に人々を駆りだす(ルカ2:1-3)ことが出来るほどの絶大な権力を持った皇帝も、あなたの「救い主」ではない。あなたの「救い主」、「主メシア」は、あの飼い葉桶の中に寝かされている方なのだと、天使は宣言します。 その通り、私たちの「救い主」は、飼い葉桶の中へとやって来られた方です。天の父なる神様の下から、この世界の最も暗く、冷たく、汚い場所を目掛けて来られた方です。宮殿のベッドではなく、飼い葉桶の中へ。私たちの人生の、この世界の、最も暗い場所を目指して、神の御子がやって来られたのです。それは、私たちの暗い現実をすべて経験し、そのすべてを背負って、十字架へと向かっていくためです。 この飼い葉桶の中の中に来られた方が、私たちの「主メシア」です。天使は言います。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:32-33)。イエス様が、私たちの王である。イエス様が、私たちの主でいて下さるということです。憎しみや、暴力ではなくて、愛によって私たちを治めてくださる方が、私たちの主でいてくださるのです。イエス様は、あのアウグストゥスのように、力で人を支配する王ではありません。私たちのために、十字架に架かられるほどの愛によって、私たちを治めるくださる王です。そして、復活し、死の力を打ち破る、何ものよりも強い愛によって、私たちを治めてくださる王です。 ● これが、私たちのクリスマスの喜びです。イエス様が、マリアの下へ、飼い葉桶の中へ、やって来られました。何も持っていないマリアの下へ。この世界の最も暗い所へ。そして、私たちの人生の中へ。イエス様はやって来られました。今年は、どんな一年でしたか。たとえどのような一年であったとしても、それは空しい一年ではないのです。孤独な一年ではないのです。「主はあなたと共におられる」。私たちの人生の、いついかなる時でも。この世界のいかなる場所でも。たとえ、世界中の人から忘れられてしまったかのように思えるところにも。いついかなるところにも、神様の「メリークリスマス」という祝福は響き渡っているのです。 |
| 上尾使徒教会 北田翔太郎伝道師 (きただ しょうたろう) |
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