2026年1月のみことば

心を新たにしていただく

 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
                    (ローマの信徒への手紙12章2節、聖書協会共同訳)

<新年を迎えて>
 新年明けましておめでとうございます。新年の挨拶として広く用いられています。しかし、すこし深くこの言葉を思い巡らしてみますと、一体何がおめでたいのだろうかという疑問が生まれたり、この挨拶に何か違和感をもたれたりする方もおられるかもしれません。もしそうであれば、それはまず、「おめでたいことなどない」という思いから引き起こされるのではないでしょうか。

 現在抱えている苦しみや悲しみ、不安や心配、あるいは世間の形式的な雰囲気に対する冷めた思いです。また、そのような私たちの心の内にある思いによるだけでなく、日本に根付く信仰に基づいた挨拶でもあるからです。私たちの信じている神とは全く異なる神への信仰です。多くの日本人が意識せずに何となく信じているものです。そのため、この挨拶に違和感を覚えるのも当然であると思うのです。

 その信仰とは、正月様と呼ばれる神へのものとされています。新しい年の初めに各家庭にこの神を迎え入れ、五穀豊穣や家内安全、商売繁盛などのご利益を古くから願ってきたようです。この挨拶は、正月様を無事に迎え入れられたことへの喜びと感謝を表すものと言われています。この神は、12月中旬頃に家々を訪れ、松の内とされる1月7日頃にどこか高い山に帰っていくようです。

 私たちキリスト者が信じる神は、ご利益を願うための神ではなく、一年ごとに来たり帰ったりする神でもありません。今も生きて私たちといつも共にいてくださるまことの神です。私たちに命を与え、人生すべてを導き、支え、守ってくださる、生きるにも死ぬにも唯一の慰めとなるお方です。
 新しい年を迎えるにあたり、まことの神に改めて心を向けて、神の御心に信頼して歩む歩みを新たにし、信仰生活を整えていくことを目指して、この与えられた新たな年を踏み出していきたいのです。

 ローマの信徒への手紙12章2節に、私たちキリスト者が整えていくべき信仰生活の目標が語られています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。」です。短い文章ではありますが、私たちの信仰生活のエッセンスが込められています。

<この世に倣ってはなりません>
 まず冒頭に「この世に倣ってはなりません」とあります。この言葉はしばしば、「流行に染まってはいけない」「この世の好ましくないとされる価値観や、欲望、習慣に従ってはいけない」という意味に理解されがちです。しかし、パウロがここで語っていることは、そのような単なる道徳的な戒めではありません。

 ここで言われている「この世」とは、私たちが住む空間としての「世界」のことではありません。「この世」と訳されている言葉は、本来「この時代」を意味する言葉です。「この時代」とは、私たちが日常で経験している「時間の経過」そのものではありません。パウロが言う「この時代」とは、主イエス・キリストによる救いの恵みが支配していない、罪と死に支配されている時代のことです。神の恵みによる救いを受け入れず、自己中心的に生き、罪と死の力のもとにある在り方、その全体が「この時代」です。そして「倣ってはならない」とは、「同じ形にされてはならない」「型にはめられてはならない」という意味です。つまりパウロは、「この罪と死に支配された時代と同じ形に作り変えられてしまってはならない」と言っているのです。

 私たちは日常生活の中で、知らず知らずのうちに「この世」の形を真似て生きています。生き方や考え方、成功や幸福の基準といったものです。そのような「この世」の基準に合わせて、知らないうちにその形を身に着けてしまう。自分では「心の中までは変わっていない」と思っていても、実際には、合わせていくうちに、心そのものも少しずつ形作られてしまいます。このことをパウロは警告しています。

 「この世」の形に合わせることは、やがて内側の心までも同じ形になってしまう。その結果、「この世」の罪と死の支配に逆らえなくなり、心も体も「この世」の型にはめ込まれていきます。このことによって、「主イエス・キリストによる救いを疑い、罪を罪とも思わず、自己中心的に、自分の思いや願いで生きるようになる」のです。「この世」は、すでに主イエス・キリストによる「新しい世」が始まっているにもかかわらず、なおも静かに大きな力をもって人々を罪の側へと引き戻そうとしています。私たちキリスト者は、「この世」の只中に生きながらも、すでにキリストによってもたらされた「新しい世」に生きる者とされています。ここに、私たちキリスト者の戦いがあります。それは、「この世」と「新しい世」の二つの支配の狭間に立ちながら、神の側に立ち続ける信仰の戦いです。

 「この世」に倣うことは、無意識のうちに起こります。私たちは皆、「この世」に生きているからです。家庭や学校、職場の中で、「この世」に支配されている考え方や習慣に合わせなければうまく生きていけない現実があります。その一つが、先ほどの日本に深く根付いている宗教習慣でしょう。正月の初詣、商売繁盛や家内安全の祈願をするために、周囲に合わせて神社参りに何となく参加してしまう。そのような行動の中にも、「この世」の力は静かに入り込んできます。また、テレビやインターネットの情報やSNSのインフレンサーなどの影響も看過できないでしょう。安心して生活していくために、これらから得た知識に信頼と希望を置くことは、私たちにとって現実的で当たり前のことになっているかもしれません。「この世」がそうだからです。しかし、そのことに人生を委ねていく中で、過ちを犯していく、うまくいかない時にはどん底まで落ちていくのです。

 私たちが「この世」の型にはめ込まれ、合わせていくことによって、本当の支配者がまことの神であることを忘れて、知らぬ間に「この世」の支配下に入ってしまうのです。自分は問題ない、俗世間からは外にいるので倣うことはないと思われる方もおられるかもしれません。けれども、「この世」に生きている限り「この世」から逃れることはできません。そのことに気付いていないだけでしょう。ですから、実際に私たちがなせるのは、「この世」との妥協です。「この世」の慣習、価値観に倣うことには気が引けるけれども、倣わなければうまく生きられないからです。だから妥協の道を選ぶのです。そのように考えると、どうしたら良いのか分からなくなり、ただ茫然と立ち尽くすしかありません。パウロが警告しているのは、まさにこのように心までもが少しずつ「この世」に形づくられていく危険なのです。だからこそ、「この世に倣ってはならない」という言葉は、単なる生活上の注意ではなく、信仰の根本に関わる命の言葉なのです。

<神によって心を変えていただく>
 「この世に倣ってはならない」に続けてこのように言っています。「むしろ、心を新たにして、自分を変えていただきなさい」と、「心の更新」を強く求めています。ここにある「心」とは、単なる感情のことではありません。思考や判断や意志、すなわち生き方を決定する源です。つまり「生き方の根本そのものを新しく変えられ続けなさい」とここで言われているのです。重要なのは、「自分を変えなさい」とは語られていないことです。「自分を変えていただきなさい」です。ここには、はっきりとした受け身の姿勢が示されています。人間が自分の力で「この世」から抜け出し、「新しい世」の人間へと生まれ変わることはできないからです。それは、私たちが最もよく知っているはずです。ただ一方的に神が変えてくださる、その恵みに身を委ねることによってしか変えられないのです。

 私たちは「この世」に倣っている自分の姿をどれほど深く見つめてきたでしょうか。便利さを優先し、成功を求め、他人の評価を気にし、他人と比べ、自分を守るために言葉を濁し、沈黙し、時には真実から逃げてきた、そのような自分の姿を、私たちは見ているはずです。しかし、その罪の現実を見つめることから、目を背け続けてきました。だからこそ、「心を新たにしていただく」という言葉は、私たちにとって厳しい言葉であるのと同時に、恵みの言葉でもあります。神は罪に支配されてしまう私たちを見捨ててはおられません。むしろ私たちの心を新しく造り変えてくださる。そのために、愛する御子主イエス・キリストを十字架におかけになったのです。

 この「心の更新」が起こる場所こそ、礼拝です。私たちは、毎週の礼拝を通して、み言葉によって何度も何度も「この世」の形から引き離され、神の恵みの中へと引き戻されます。日々の生活の中で、「この世」の価値観に引きずられ、心が知らず知らずのうちに歪められていく私たちが、再び神の御前に立たされ、本来の姿へと立ち返らされる場所、それが礼拝です。礼拝とは、単なる宗教行事ではありません。ご利益を祈願するために参拝するといったものではありません。礼拝とは、「この世」に捕らわれ続ける弱く罪人である私たちが、神の言葉によって解き放たれ、「新しい世」の現実へと引き戻される、命の出来事です。

 教会に集い、礼拝を捧げる中で、み言葉に聞き、聖霊の働きを受けて、何度も新しい命を与えられ、神の似姿へと変えられていくのです。新年を迎える時、私たちは「新しくなりたい」「今年こそは変わりたい」と願うものです。しかし、多くの場合、それは私たち自身の決意にとどまります。数週間も経つとその決意は挫折し、忘れ、失います。だからこそ、「自分を変えなさい」とは言わずに、「変えていただきなさい」と言っているのです。新しい年の歩みは、私たちの決意の強さによってではなく、神の恵みの確かさによって変えられていくのです。
 
<神の御心をわきまえる>
 さらに続けて言います。「何が神の御心であるか、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえるようになりなさい。」ここでは、神に「心の更新」をしていただくことによって、「御心をわきまえるようになる」と言っています。「わきまえる」とは判別するということです。神の御心と「この世」の価値観をしっかりと見分ける、区別することです。それは、日々与えられる小さな選択の中で、「神が喜ばれる道」と「自分が喜ぶ道」との間で、神の方を選び取り続ける力です。

 何が、神の求めている善であり、喜びであり、完全であるかを判別する力です。その力は、「心の更新」なしには与えられません。それは聖書に示される神の言葉によって与えられます。聖書のみ言葉に繰り返し聴くことによって、心を新たに造り変えていただくのです。それは聖霊の働きにおいて与えられる信仰に基づくものです。また聖書のみ言葉を一人で聴くのではありません。冒頭に「あなたがたは」とあります。この「あなたがた」とは、教会に連なっている私たちのことです。教会の礼拝において、聖霊に満たされ、兄弟姉妹と一緒に聖書のみ言葉に聴き、分かち合う、このことが信仰生活の土台となるのです。

<新しい年の歩み>
 私たちは、新年を迎えるにあたって、改めてこのみ言葉の前に立ちたいのです。「この世に倣ってはならない」「心を新たにして自分を変えていただきなさい」「神の御心をわきまえるようになりなさい」。これは私たち教会への勧告であると同時に、パウロの確信です。神はご自分の民を必ず新しく変えてくださる、このことをパウロは固く信じていたのです。

 私たちは、「この世」の只中に生きています。しかしその中で、礼拝へと招かれ、悔い改めへと導かれ、み言葉によって常に心を新しくされ続ける。その歩みを目指すことこそが、信仰生活です。この信仰生活の歩みの中で、神の御心に従う者へと変えられていきます。神の御心とは、「神を愛し、自分のように隣人を愛する」生き方そのものです。私たち罪人は完全に神と隣人を愛することはできません。失敗し、躓き、後悔することもあります。しかし、心を新たにされ続ける歩みの中で、私たちは何度でも、神の愛へと立ち返ることが許されています。その恵みの中で、少しずつ、確かに、神を愛し人を愛する者へと造り変えられていくのです。

 この新しい年、「この世」に形づくられるのではなく、むしろ神に心を新たにしていただき、何が神の御心であるかをわきまえるようにならせていただく、そのことを求めて歩んでいきたいのです。神は、この年も変わることなく私たちに愛を注いでくださり、恵みの中へと招き続けてくださっているからです
大宮教会 佐藤潤伝道師
(さとう じゅん)
 




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