| 2026年3月のみことば |
| 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 (ルカによる福音書22章31~34節) |
【1】 神はひとりひとりの名前を呼んで、良い知らせを語りかけてくださる方です(ヨハネ10:3-4)。しかし、本日の箇所で名前を呼ばれたシモン・ペトロに語られたことは、試練の予告でした。ペトロは主イエスの一番弟子といってもいい存在で、最初に主に招かれた弟子のうちのひとりです。ルカによる福音書では5章に、ガリラヤ湖の漁師であったペトロが主に弟子として招かれる記事があります。さらに9章では、主の問いかけ「わたしを何者だと思うか」に対して、「神からのメシアです」と信仰告白をしています。これの並行箇所であるマタイ16章では、そのペトロに主が「この岩の上に教会を立てる」と約束しています。しかし、ペトロは優等生ではなく、このとき予告された試練と失敗に砕かれました。そして、自らのすべてを神に委ねることを真実に知り、復活の命に立ち上がらされて、キリストを宣べ伝える者とされました。 【2】 教会の基として召された者たちをふるいにかけるというサタンの願いは、なぜ神に聞き入れられたのでしょうか。また、なぜ主イエスはシモン・ペトロの名前を呼んで、サタンの働きを知らせたのでしょうか。それは、ペトロを通して、これから先のすべての人の目を覚まさせるためです。人はみな罪人であり、主に従おうとする覚悟にも限度がある、そして霊の戦いがある、と。 ペトロの信仰の危機に主は、「我らを試みに遭わせず。悪より救い出したまえ。」と祈ってはくださいませんでした。サタンからの試練は、十字架のために必要なことでしたから、主はこのように祈ってくださいました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。(32節)」 この祈りはペトロにとって、これから信仰をなくすような目に遭うと主に宣告されているようなものです。しかし、ペトロは大丈夫だと思ったでしょう。この方とともに生き、じゅうぶんに学んだ、この方とともにいるなら大丈夫だ、試みに勝てる、と。 そのペトロに、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」という主の命令は、どう響いたでしょうか。主は、ペトロが倒れることとともに、立ち直るとも約束してくださいました。そして、隣人を力づける存在とされるという、試練の後の実りも約束されました。 しかし、ペトロは自分が倒れるとは思えませんでしたから、こう答えました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。強い気持ちを持ったペトロに、主は、彼がどんな倒れ方をするかまで教え、この予告を確かなものとされました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」【3】 自信を持つことはたいせつです。教会生活を送っている方は、謙遜に、聖霊の働きによって自分を信じ、常に祈りつつ大胆にされて、自分の思いを行なっているでしょう。ペトロも同じです。覚悟のことばの冒頭で「主よ、御一緒になら」と言っています。主にあって覚悟が与えられていることをわかっていました。それでもペトロは間違えました。試練の後に兄弟たちを力づける存在にされるという恵みを聞き流し、「死んでもよい」と約束したのです。 命の事柄は神の領域であり、人が安易に誓ってはなりません。自信を持つことには限界があります。フィリピ書はこう語ります。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。(フィリピ2:12-13) ペトロは最初に主イエスと出会ったとき、恐れおののいていました。ルカ5章で、主は夜通し漁をして何もとれなかったペトロたちに対して、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命令しました。そのとおりにすると、舟が沈みそうになるほどの魚がとれました。これを見たペトロは、主の足もとにひれ伏し言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。しかし、そこから主とともに歩み続けて経験を積んだペトロは、主に従う熱心のあまり、主にひれ伏して、自分が罪人だとを認めることを見失いそうになっていました。そして、十字架がペトロを砕き、救いました。 【4】 ペトロほど劇的なものではないかもしれませんが、主と出会い、恵み深く恐れおののいた経験が、おひとりおひとりの心の中にあると思います。礼拝に招かれていること、信仰が与えられているということは、主に圧倒された証です。教会は、主の恵みのうちに 倒され、復活の命に立ち上がらされた人の集まりです。だから、安心して倒れられる場所でもあります。信仰のうちに生きるとき、倒れることも失敗も恥とはされません。赦されて、立ち直って兄弟を力づける存在として整えられ、生かされる道とされるのですから。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカ9:23-24) それぞれの十字架をわかちあい、語りあい、助け合うとき、私たちは「立ち直ったとき」を復活の主とともに生かされているとに気付かされます。身を低くし、心を高く上げ、受難節の歩みを進めましょう。 |
| 飯能教会 吉永直子牧師 (よしなが なおこ) |
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