2026年4月のみことば

堅固な成長

 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
  あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
                    (コロサイの信徒への手紙2章1~19節 )

 信仰がどうしてぐらついてしまうのか、その明確な理由をパウロは明言します。「頭であるキリストにしっかりと付いていない」(コロサイ3:19)からだと指摘します。パウロは、頭はキリストであることを指摘します。この場合、教会の頭はキリストであるということです。牧師でもなければ、有力な信徒が教会の頭ではありません。偽教師たちの教えによって動揺し、信仰の確信や喜びがぐらついているコロサイの教会の人々に向かってパウロは「あなたがたの頭はキリストではないか」と、自分たちを導いていてくださるお方、仰ぐべきお方はどなたであるかを指摘します。このことは私たちの立つ信仰の要であり、キリスト教会の要でもあります。

1.パウロは元々純粋で忠実な信仰に生きて来たコロサイの教会の人々に向かって「神の秘められた計画について悟るように」と励まします。(1~2)パウロは「どれほど苦労して闘っているか、分かってほしい」と訴えます。ここに「ラオディキア」の名前が出てきますが、パウロや同労者たちが福音の種を蒔いて各地にキリストを信じる群、教会が誕生したのですが、外部から来た偽教師たちや、内部からそのような人々によって騙され、誤った教えに染まってしまった人たちによって試みを受けていました。そのような闘いは現代でもあります。

 パウロたちの働きは労苦の伴う働きです。楽な伝道、スマートな伝道などありません。最近AI、人工頭脳のことをよく耳にします。大変便利なもののようですが、魂を捉える伝道は信仰と祈り、そして聖霊の導きを頂いた結果与えられる御霊の実です。コロサイの人々は「知恵」を強調する偽教師たちによって翻弄されていたわけですが、知恵や理解では魂に救いを得ることはできません。

 先日保育園のインターネットが接続できなくなり、お世話になっている専門業者に来ていただこうかとの話となりましたが、念のためWifiの機械のコードを一旦抜いて入れ直すと再び使用できるようになりました。原因は単純な点にありました。インターネットの世界は便利なようで不便さを感じることがあります。効率を求めつつも大切な何かを失っているのではないかと思うこともあります。少なくとも物事を考えず便利なものに頼ろうとする時代になっているようです。

 パウロは偽者に惑わされ混乱しているコロサイの人々に対してパウロがこの手紙を書き送った大きな目的は戸惑い困難に陥っている人々を励ますことにありました。そしてどのような試みを受けようとも失ってはいけない本質的な事、キリスト・イエスを信じる信仰とキリスト教会の原点を指し示します。キリスト教会の群とはどのようなものであるかというと「愛によって結ばれている」群れであるということです。

 裏返してみるならば動揺するあまり、「愛の絆」が崩壊しつつあったようです。互いに疑心暗鬼の状態に陥ってしまったのかもしれません。惑わしを受けつつも何故そのような状態に陥ってしまったのか、それは神の秘められた計画の理解力が欠けている、救い主であるキリストを真の意味で悟っていないからだと言うのです。

 信仰と言うものは悟るものです。聖書を熟知している人だからキリスト者になるかというとそうでもありません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたと家族も救われる」というみ言葉を、二十歳の時私は単純に信じることができました。その時神の招き、促すものを悟ったからに他なりません。

 ある方が何故自分はキリストを信じる者となったかを証してくれました。伝道バイブルキャンプでの集会の時、牧師がルカによる福音書19章にあります徴税人ザアカイの話をしたそうです。ザアカイは徴税人たちの頭ですから、有力者であり金持ちです。しかし人々からは嫌われておりました。ローマの手下になって同胞から税を取り立てる働きをしておりましたが、当時の徴税人は不正を働き、税金は取り放題、ローマ帝国に収める以外のお金は自分たちの懐に入れていました。人々からは「魂を売った守銭奴」と見做されていました。

 その彼の住む町に主イエスがお出でになられました。そのお姿を一目でも見ようとするザアカイでしたが、群衆に遮られて見ることが出来ませんでした。ルカは「背が低かったので」と記しておりますが、学者に言わせると、極端に背が低かったという意味の言葉が用いられているとのことです。そのことで馬鹿にされ、コンプレックスを抱き金持ちになって人々を見返ししようと思ったのかもしれません。「群衆に遮られて」とありますが、ザアカイに主イエスの姿を見せまいとして群衆が意図的に邪魔をしたのかもしれません。

 しかし一目でも主イエスのお姿を見たいと願ったザアカイは、いちじく桑の木に登ったのでした。そのザアカイに向かって主イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と語り掛けました。主イエスを救い主として信じ受け入れたその方は「ザアカイ、急いで降りて来なさい」との主イエスの語り掛けが、自分に向けて語り掛けている招きであると受け止めて信じましたとの証しされました。

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい」、その一言の言葉だけで主イエスを信じることなど思い付かないことですが、その方はザアカイこそ自分自身だと悟って主イエスを救い主と信じる者となったのでした。四人家族でしたが、初めに彼の奥さんが実兄の祈りとその信仰によって救われ、その後息子と娘も信仰へと導かれ、最後に祈りの実としてそのご主人が救いへと導かれて行きました。その娘さんと私は同じ日に洗礼を受け受洗兄弟となっております。

 月日は早50年が過ぎておりますが、主のなされる救いは実に不思議です。パウロがコリントの信徒への手紙一 12章3節で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とありますように、目には見えませんが、私たちが今ここにあるのは、聖霊の導き以外のなにものでもありません。コロサイの教会の人々が惑わされていたことは、知恵こそが全てであるという論理です。しかし知恵がすべてを解き明かせるわけでもありません。知恵を結集しても分からない未知の世界があります。自分自身の存在すら説明できません。

 聖書が「原罪」というアダムと女が犯した罪は、神によって創造された被造物であるにも拘わらず、神のごとき絶対者になろうとした傲慢さにありました。詩編8編4節から6節にダビデの歌がささげられています。「神にわずかに劣るものとして人を造り」と賛美をささげています。人間は「万物の霊長」と言われます。全ての動物の中で、人間はもっともすぐれた存在である、他の動物にはない唯一霊的な存在であるとの意味でこの言葉は使われています。動物の世界においても最も優れた存在であるかもしれませんが、絶対的な存在という意味では使われていません。

 聖書は「神に僅かに劣るものとして造られた」と語ります。人間がどんなに優れた存在であろうとも、神ではない、有限さがあることを語るのです。パウロは「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と述べます。すなわち救いの一切合切はキリストの御手の内にあるということです。だからこそ、知恵を用いた巧みな議論に騙される必要はありません。救いは神、キリストの側にあるのであって、人間の側にはありません。惑わしを受け混乱の中にあっても、キリストに対する固い信仰に立っているコロサイの人々を見て「喜んでいます」とパウロは書き送ります。

2.信仰に生きるということは、キリストに結ばれた生活であるということです。枯れてしまったかのように見える木は、冬の期間はより深く地中に根っこを張るそうです。ビルなどの建築現場などもそうですが、何か月間も塀の向こうで作業をしているようです。ところがある日突然、骨格が現れビルの全体像が見えてびっくりすることがあります。長時間かけて土台を作っていたわけです。何もしていないようで、大切な土台作りのためにじっくりと時間をかけて工事をしていたわけです。

 軟弱な地盤や高層ビルであるほど、何十何百もの杭が地中深く打ち込まれます。目には見えませんが、それがあってこそ堅固な土台が生まれるわけです。信仰に生きるということは、根無し草のようなものではなく、キリストに根を下ろすということです。哲学は真理を探究するためには有益です。しかし真理そのものではありません。哲学は人間の言い伝えに過ぎない、だましごとに過ぎないと、大変辛辣です。しかしパウロは哲学そのものを否定しているわけではありません。哲学そのもの、グノーシス派の人々が語っている知識そのものには救いは無いということです。私たちが焦点を合わせなければならないことは、キリストです。 

 阪神淡路大震災が起こったのは31年前のことでした。あの大震災を機に私は携帯電話を購入すると共にバイクに乗る決意をしました。牧会者はいつでも連絡が取れ、いつでも駆けつけるようでなければならないと示されたからです。そのため中型二輪の免許を取得するために自動車教習所に通いました。2.3週位で取れると思っていましたが、結局1か月以上時間がかかってしまいました。

 試験の最後の難関は幅20センチほどの一本橋を渡り切るというものがありました。落ちまいとしてゆっくりゆっくり安全に走ったつもりでも落ちてしまいました。他の人たちも同様でした。一本橋は10メートルほどの長さですが、教官から頂いたアドバイスはゴールに焦点を合わせ、ノロノロではなくスピードを思い切って上げて渡ってくださいということでした。その通り実行すると無事に渡ることが出来ました。

 このことを私は信仰的に捉えました。信仰の焦点を常にキリストに定めるということ、それからもう一つ学んだことがありました。バイクの場合、カーブする時に車体が傾く構造となっております。場合によっては地面に擦れてしまうのではないかと心配することもあります。バイクレースをしている選手の姿を見ると傾いた車体と体は、地面すれすれです。しかし倒れることはありません。そこで教えられたことは、エンジンが動き車輪が回っている限り倒れないということです。信仰も同じだと気付かされました。どのような窮地に陥ろうとも信仰を働かせている限り倒れることは無いという事実です。

3.私たちの立ち位置、内実が大きく変えられているという恵みの事実があります。重要な点は、キリストを信じる人たちはキリストと共に葬られ、キリストと共に復活した人たちであるということです。「バプテスマによって」とありますが、洗礼式が形式的な儀式でしかないと思っている人たちにとっては、水に入り、水から上がるだけのことでしかありません。しかし信仰に立つ者にとっては単なる儀式ではありません。罪ある古き人に死に、キリストともに復活された者としての新たな人生のスタートです。

 洗礼式は葬儀と結婚式のようなものであるともいえます。パウロは罪に死んでいた者を神はキリストと共に生かして下さったと述べます。特に14節の「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」との表現にはすざましいものがあります。要するに私たちを罪に定め、その結果滅ぼそうとする証書、すなわち「お前は罪人である。それ故に裁かれなければならない。その結果は永遠の滅びである」との告訴状を破棄し、十字架に釘付けにして取り除いてくださったというのです。しかも、キリストの勝利の列に連なる者とさせていただいているというのです。夢のような恵みであり話です。

 しかしそのような時に人が思いがちなことはそれでは申し訳ないという心情です。あれを守らなければならない。これも守らなければならない。この場合、割礼の問題、食べ物や飲み物の問題、祭りや日取りの問題など、色々考慮し守らなければならないと思います。当時コロサイの教会の人々の中にもそのように思った人々もいたようです。

 パウロは影に過ぎないものに惑わされてはいないか。実体はキリストにある。どのような者たちに、あるいはどのような方法で騙されているのかをパウロは具体的に触れます。「偽りの謙遜」、神ではなく「天使礼拝にふける者」であると述べ、彼らの言っていることは幻で見たこと、霊的なものではなく、肉の想いによって根拠もなく思いあがっているに過ぎない。すなわち実体は無い、どうしてそうなったのかと言うと、頭であるキリストにしっかり付いていないからだと述べるのです。

 そこで本来あるべきキリスト者、キリスト教会の姿はこうであると述べます。キリスト教会とは一部の人々が成長するのではなく、キリストを頭として体全体が成長していくものだということです。「体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられている」ということは、それぞれが無くてはならない大切な存在であるということ、そして群全体を神が育てて下さるというのです。おかしくなってしまう理由、迷走してしまう理由は、キリストにしっかりと結びつくことです。

 キリスト者とは、キリストの道を歩む人のことを言います。作家の武者小路実篤がこのような言葉を遺しています。「この道より、我を生かす道なし、この道を歩む」と。彼は『人生論』という著も残していますが、本質を突く言葉です。私たちもキリストにしっかりと結びつき、「この道を歩む」と明言する、そのような信仰に立ち続けたいと思います

白岡菖蒲教会 東海林昭雄牧師
(しょうじ あきお)
 




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