2026年6月のみことば

聖霊って何ですか?

 わたしの霊がなえ果てているとき、わたしがどのような道に行こうとするか、あなたはご存じです。その道を行けば、そこには罠が仕掛けられています。目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もありません。
                    (詩編142編4~5節)

 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。
                    (詩編16篇7~11節)

 県下の上尾市にあります、上尾合同教会の牧師をしております武田真治(たけだ しんじ)と申します。私はかつて新潟と名古屋と広島の教会に居りました。不思議なことに、その三つのいずれの場所でも、近くのキリスト教(主義)学校からお声を掛けて頂き、学生たちに聖書を教える授業を担当させて頂きました。若者たちに聖書を伝えることは、とても良い機会であり、自分も勉強になったのですが、なかなか『伝わらないなあー』と思ったこともいくつかありました。

 その内のひとつが<聖霊>という事柄でした。『聖霊って何ですか?』という質問を良く受けました。確かに“霊”とか“聖霊”とかは聖書によく出て来ます、それ故、とても大事な言葉なのですが、うまく伝えるのに難しさを感じる言葉だと思います。今日はこの点について共に少し考えたいと思いました。おつきあいくださると幸いです。 

 さて、最初の言葉は旧約聖書の詩編142篇からの言葉です。ここに「わたしの霊がなえ果てているとき」という言葉があります。実は、この短い言葉の中に、聖書が人間について考える時の基本的な考え方が示されているのです。と言いますのは、私たちの体の中には「わたしの霊」と呼べる”霊”が備わっているというものです。これは私たちの感情や意志、心と呼ばれるものも含めて、自分の思いや活動の源となるものだと言い得ます。

 つまり、私たちは普段この「わたしの霊」に従って”生活している”ということです。それ故に、自分の”霊”で動いて、つまらない失敗や大きな間違いを起こすこともあります。また、この詩編の言葉のように「わたしの霊がなえ果てている=意気消沈してしまっている」という時もあります。そんなときは、自分でも『なんとかしなきゃ、元気をださなきゃ』と思いながらも、全然、力が湧いてこない時があります。しかも、この詩編142編の祈り人には「右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もありません。」というような状況に陥っているのです。そんな時にどうするか? それこそ一番問題になるのではないでしょうか?

 もう一つの詩編16篇の祈り人は「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。」と語っています。そんな私たちの“霊=思い=心”に対して、神様が「諭してくださり、右にいてくださる」と語っています。神様が、孤独な私の霊を支え、思いを励まし、心を諭してくださると!これこそが”神様からの霊“なのです。

 神様から来るから「聖なる霊=聖霊」と呼ぶのです。神様が“霊”という形をとって“私の霊”の「側に」立ってくださるのです。言い換えれば、私たちが持っているところの”私の霊”に対して『君は大丈夫か?』『その思いや考えでやって行けるのか?』『私の聖霊を受け入れてみたら?』と働きかけてくださると、それが”聖霊の働き”であると言い得ます。この”聖霊”の声に耳を傾けることによって自らを正し、新しい思いに気付かされていくことが信仰者だけでなく、人間として本来の在り方ではないかと! 

 このことを、詩編16篇では「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。」と表現してくれています。私が自分の考えや思いだけに凝り固まってしまい、そのままだと滅びてしまいそうな時に、神様の“聖霊”が側に立って「命の道を教えてくださいます」と。その結果「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」というような喜びに満たされることになると!これが聖書の告げる“聖霊の働き”を表す言葉です。《聖霊を信ずる信仰》と言い変えてもよいかと思い得ます。

 私たちは「わたしの霊」だけに頼って生きていると、逆に言えば”悪しき霊”がいつのまにか入ってきて、自分の霊が支配されて、その悪霊の思うままに動かされてしまうこと=洗脳されてしまうことがあります。神様から与えられる「聖霊」が自分の側にあることで、私の霊がしっかり導かれていくのではないでしょうか?特に、キリスト教の信仰では、イエス・キリストが天に居られて、そこから私たちひとり一人に特別な「聖霊」を送ってくださっています。それを特に“キリストの霊”とも呼びます。故に、いつも『聖霊よ、来てください』『イエス様、私にあなたの霊を注いでください』と祈っていくことが大切であり、必要なのです。

 自分の思いや感情や考えだけで走ってしまうと、結果的に生き苦しくなってしまうからです。『聖霊よ、来てください。特にキリストの霊を与えて、私の心を諭し、思いを励ましてください。』と祈り求めて生きて行くことで、なんとかこの世を生き抜けるのではないかと私は思っています。

 しかも、最後に、この「キリストの霊=聖霊」は、詩編16篇で「わたしの魂を陰府に渡すことなく、命の道を教えてくださいます。」と言われているように、この世の生涯を終えた後も、“死”の向こう側に、更に“生きる道=神様の御許で復活する道”までへと「導いてくださる」ということまでつながっているのです。そのことをイエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書 14章1~3節)と約束してくださっています。

 この「約束の言葉」を信じて、『聖霊よ、来てください』と祈りつつ、イエス様を見上げて生きることが《聖霊を信ずる信仰》なのです。

上尾合同教会 武田真治牧師
(たけだ しんじ)
 




今月のみことば              H O M E