2026年7月のみことば

わたしが持っているもの

  ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
                    (使徒言行録3章1~10節)

 わたしは何を持っているだろうか?皆さんは考えたことがありますか?普段意識しませんが、改めて考えてみると、色々あるでしょう。私は車を持っている。家を持っている。お金を持っている。そういった物質的なものから、私は地位を持っている。名誉を持っているといった社会的な価値であったり、大切な家族を持っている、親しい友人を持っているといったつながりの場合もあります。あるいは、私は健康な体を持っている。美しい容姿を持っているといった身体に関わるものもあるかも知れません。そして、それらは私たちにとって喜びや誇りだったりするでしょう。

 では、そういったものが私を“救う”ものだと思いますか?‥‥あるところに大金持ちがいました。彼にはたくさんの財産がありましたが、ある時、事業が当たって財産が何倍にも増えました。彼は、新たな口座を作って、それらを貯蓄し、もうこれで働かずに自分のやりたいことをして暮らせる、とほくそ笑み、とりあえず今夜はその祝いだと贅沢なディナーを楽しみました。
 ところが、翌朝、彼はベッドの上で天に召されていたのです。これ、聖書の話です。ルカによる福音書12章で、主イエスが語っています。召される前に、彼は神のお告げを聞きました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」(ルカ12章20節)。

 どんなに莫大な財産を持っていても、天国には持って行けません。最初に色々と挙げたものも、大切な、価値あるものに違いないのですが、やはり天国に“自分のもの”として持って行くことはできません。なぜなら、それらは私たちが、自分の“外側”に持っているものだからです。
 天国に持って行けるのは自分の“内側”にあるものです。外側に何を持っているかに関わらず、変わらないものです。そしてそれが、私たちの“救い”に大きく影響します。喜び、平安、希望に関わります。救いのために私たちが自分の内側に確立できるもの、それは信仰であり、今日の聖書の言葉で言えば「イエス・キリストの名」(6節)です。

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 ペンテコステの日、聖霊が降りて来ました。祈り求める弟子たちに“炎の舌”として宿り、イエス・キリストの十字架と復活を証しさせ、その出来事を根拠とした救いの恵みを語らせたのです。それを聞いた人々は心を打たれ、信じて洗礼を受けた人が3千人も出ました。この出来事が最初の教会の誕生であり、ペンテコステに起こったことです。信じた人々、特に使徒となった弟子たちは、自分の内側に救いの確信を持つように変えられ、「イエス・キリストの名」を持つ者となったのです。

 そのような使徒たちの中心であるペトロとヨハネが、午後3時の祈りのためにエルサレム神殿に上って行った時のことです。神殿に入るには門が8つほどあったそうですが、二人は「美しい門」(2節)から入りました。すると、そこに「足の不自由な男」(2節)がいました。体が不自由なため働いて生計を立てることができず、施しを乞うために運ばれて来ていたのです。神殿は人が最も集まる場所であり、ユダヤ教では、施しは敬虔な行為として神の御心に適うことでした。だから、8つの門には、そのような人がたくさんいたでしょう。

 男は二人に施しを乞いました。お金を求めました。それは生きていくために必要不可欠なものでした。けれども、そうすることは惨めで、悲しい気持だったでしょう。あるいは、もう慣れて心が麻痺していたかも知れません。いずれにせよ、それは彼の内側を満たすもの、喜び、平安、希望を生み出すものではなかったのではないでしょうか。

 そんな彼に、ペトロとヨハネは「わたしたちを見なさい」(4節)と言いました。私たちは、なかなかそんなことは言えません。むしろ、見ないでくれと思っているかも知れません。けれども、クリスチャンとして生きるということは、言葉ではっきりとそう言わなくても、人々に“見られる存在”として生きることなのです。意識するしないに関わらず、主イエスに言わせれば“神の祝福のモデル”として、「地の塩」「世の光」として生きているということにほかなりません。もしも喜びや平安、希望があなたから漏れ出ていたら、周りの人は「見て」と言われなくても、注意をひかれるでしょう。

 ペトロとヨハネは、この男に、自分たちの何を「見なさい」と言うのでしょうか。ペトロが言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。

 二人は男に施すことのできる金銭を持っていません。自分の外側に与えることができる価値あるものを持っていません。けれども、自分の内側に、喜びや平安、希望を生み出すものを持っている。救いが湧き出す泉を持っている。それが「イエス・キリストの名」です。砕いて言えば、主イエスの人生における愛と言葉によって、また十字架と復活の出来事によって明らかにされた神の愛です。この愛によって、二人は、かつて主イエスを捨てた者でありながら赦され、自分は大切にされ、価値ある者とされ、一人の人として認められている。天国を約束されているという確信を、持っているのです。

 ペトロとヨハネは、イエス・キリストに救われた自分たちの生きる姿を見なさい、と男に語りかけているのです。そして、この神の愛による救いの恵みは、人に分け与えることができる。男が二人の姿に“違い”を感じ、神の愛が働いていると認め、自分も信じて救われたいと求めるなら、この恵み、すなわち「イエス・キリストの名」は、この人の内側にも与えられるのです。11節以下で、この男の救いの出来事は、彼自身の「信仰」によるものだと言われているとおりです。

 彼が「躍り上がって立ち、歩き出した」(8節)ということ。それはこの時、事実そうだったのかも知れません。けれども、信じて求めれば、癒しの奇跡が都合良く起こるものではありません。主イエスを信じるとはご利益を期待することではありません。
 それは、イエス・キリストによる神の愛を信じる信仰により、うずくまっていた心が立ち直り、その人の内側が喜び、平安、希望に満たされて生き始めること。生きる姿勢が変えられること。それが「立ち上がる」ということでありましょう。そして、この立ち上がりを必要としている人は、私たちの周りにも大勢いるのではないでしょうか。
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 先日26日の夜、シフト青年の学び会を行いました。その分かち合いの中で“証しする”ってどういうことだろう?という話になりました。イエス・キリストによる救いを言葉で説明し、伝えることが証しだと思っているという発言がありました。もちろん、そのとおりです。でも、その証しが説得力を持つのは、自分がイエス・キリストを信じて立ち上がり、歩んでいるその生きる姿があってこそです。信仰と愛によって話し、振る舞い、行動している姿です。その姿を“見て”と言わなくても、周りの人は見ています。だからこそ、“あなたも立ち上がり、歩きなさい”と言うことができる。歩きなさいとは強制や命令ではなく、“あなたも信じてみたら?”という救いへの促しなのです。

坂戸いずみ教会 山岡創牧師
(やまおか はじめ)
 




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