2026年9月のみことば

神が与えるゴール

  モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。
 「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
  主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。
                    (申命記34章1~12節)

[1]
 もうずいぶん前のことになります。
 1984年(今から約40年前)、ロス・アンジェルス(LA)で開催されたオリンピックの女子マラソンのレースでの出来事でした。オリンピックにおいて、女子マラソンが公式競技になった最初のレースでした。このとき、スタジアムにもどってきた選手の中に、脱水症状おこし、フラフラになりながら、差後までレースを放棄せずに、ついにゴールに到達し、完走した選手がいました。
そのフラフラになった姿が頭から離れないのですが、選手の名前はガブリエラ・アンデルセン(Gabriela Andersen-Schiess、1945/3/20-)スイスの選手です。

 過酷なレ―スのあと、この選手がフラフラになりながらも、決してあきらめずにゴールのラインをふんだことは、「素晴らしい」という賞賛の声とともに、「一歩間違えば、死をまねくことだった」という懸念の声との両方が交差していました。当のご本人は、いわば命がけで完走したことについて、後日、こう語っています。

 「他のマラソン大会なら棄権していました。でも、五輪の歴史的な大会だったので、どうしてもゴールしたかったのです。
 なぜなら、『オリンピックで走る』ということ以外に、史上初の(五輪での女子)マラソンに参加できるということでも、このレースが特別なものだと感じていました。そして、女子長距離走の開催が正しいことだと、オリンピック委員会に知らしめたかったのです。女子が走れないだなんて、科学的な証拠は一切ないのですから。」 


 アンデルセン選手にはこういう思いがあったということです。
 なるほど…オリンピック史上、初の女性マラソンの競技を「正当化したい」とのその一念で、フラフラになりながらも、とにかく「完走」することに意義があり、もしかしたら、アンデルセン選手は使命も感じていたのかもしれませんね。賛否はともかく、このレースで肝心だったのは、「完走すること」「ゴールに到達すること」だったのです。「完走」してこそ意味がある、という価値観です。
 このレースに限らず、ゴールを目指す競技は、途中でどんなに良いタイムがでたとしても、「完走してこそ意味がある」のです。途中棄権は、記録から抹殺されるのです。

 …これは、この世の価値観のある一面を表しています。他のスポーツでも、「結果がすべて」と、よく、スポーチ選手は口にしますね。スポーツだけでなく、経済の世界も、学問の世界も、政治においても「結果を出さなくては意味がない」といわれてしまうことはしばしばです。「ゴールを目指せ!」「結果をだせ」…それ自体は決して、悪いわけではないのですが、人生には、願っていたゴールに必ずしも到達できないことは、やまほどあります。そういう現実があります。それなのに、「ゴールに到達できてこそ意味がある」といって、到達できなかったことはすべ無価値、とされてしまったら、私たちは途方に暮れてしまいます。…また、その挫折感、敗北感に打ちひしがれてしまうことのなんと多い事でしょう。
 しかし、聖書の見ているゴールは、ちょっと違う。いえ、大部違います。違う視点でこの世界をみています。
 それは、モーセというイスラエルの指導者の人生の最後によく表されています。

[2]
 モーセは、皆さんもよくご存じのように、旧約聖書に出てくる人物で、
イスラエルの民の偉大な指導者です。
 
因みに、ここに出てくる「イスラエル」という民族名は、今の政治の上での国を指しているのではなく、聖書においては、「神の民」としての信仰共同体を意味していることに留意。エジプトも今の国と重ねないように。
  
 その昔、イスラエルの民がエジプトで虐げられていたとき、モーセは神によって指導者として立てられ、イスラエルの民をエジプトから連れだすことに成功し、その後も「神からの契約である十戒」を授かり、この十戒を携えてイスラエルの民を祖先の地まで連れ帰った人物です。そのモーセの再晩年のことが記してあるのが、今日の聖書の箇所です。

*ピスガの山で
 モーセが率いるイスラエルの民は、苦労してやっと、彼らの先祖の地(カナン)の一歩、手前までやってきました。彼らはネボ山(=ピスガ)の山の頂きに到着しました。(申命記 34:1~)神は、モーセがカナンの地のすべてを見渡せるようにしました。
 モーセは自分の死が近づいたことを神から知らされたので、自分の後継者を任命してくれるよう神に頼みました。民数27:15に記されています。 
 そこで、神は「霊に満たされたヌンの子、ヨシュア」(民数27:18)を後継者として立てるようモーセに告げました。モーセは神から命じられた通りにヨシュアを選び、祭司エルアザルと共に、彼を自分の後継者とし任命しました(民27:22-23,申命34:9 )

*モーセの使命
 こののち、主なる神はモーセに次のように告げました。
 
申命34:4 これが、あなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。私はあなたがそれを自分の目で見るようにした。
 神は、モーセをここまで導いてくださいました。神はかつて、モーセをホレブ山(シナイ山)で、イスラエルの民をエジプトから導き出すよう命じた時に次のような約束してくださいました。即ち、「わたしは降っていき、エジプト人から彼らを救い出し、この国から、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地(彼らの先祖の住んでいた土地)~へ彼らを「導きのぼる」(出エジプト3:8)という約束です。この約束が、今、実現する直前まできている、という宣言です。約束の実現直前、ゴール直前まできている、ということです。

 ここまでくるのに、モーセはどれだけ苦労したことでしょう。エジプトから脱出するまでが、まず一苦労でした。人々を「不自由な状態から自由な状態」へと救い出すにあたっては、大きな苦労がありました。当時のエジプト王(ファラオ)との闘いでした。ファラオは、「自分が神になってしまう力=神に反する力」の象徴です。その「自分が神になってしまう力=神に反する力」に対して驚くべき方法で、神ご自身が闘ってくださり、人々を「自由へと」救い出してくださいました。神はモーセを用いて、「新しい道」を開いてくださったのでした。これが「出エジプト」の象徴的出来事です。

 …にもかかわらず、ピンチになるたびに「こんなことならエジプトにいた方がましだった」と文句をいう内側からの不満と批判の声との闘いがモーセを苦しめました。外側からの敵もさることながら、内側から湧き出てくる不満と批判の声は、指導者を一番、苦しめる要因です。しかし、これもまた神ご自身が対応してくださり、その都度、民を養い、導いてくださいました。モーセはそれを一番よくわかっていたと思います。すべて「神の愛」からでた「神の力」による救出劇であったことを、今、ここにきて、しみじみと思っていたことでしょう。ゴールは目の前です。

 それなのに、主なる神はこう宣言します。
 
申命34:4 ~ しかし、あなたはそこに渡っていくことができない。

 え~!!
 ゴールは目の前にあるのに…神はなんてことをおっしゃるのでしょう?ゴールをわざわざ確認しておきながら、「あなたはそこに渡っていくことができない」なんて、なんて酷な宣言でしょうか?

 世の多くの人は、「ゴールに達してこそ、意味がある」という価値観で生きています。このことは、冒頭で確認しました。脱水症状でフラフラなりながらも、とにかく、自分のためというよりは、あとに続く女性アスリートたちのためにも、なんとしてもゴールしたかったアンデルセン選手の姿は感動的でした。ですが、ゴールのラインをふまなかったら、途中棄権者の人数が一人、増えただけでのことでした。だから、「ゴールしてこそ意味がある!」 だったのです。
 そのことから考えると、モーセが約束の地に入れない、ゴールに達しないのは、なんと残念なことか!今迄の苦労は何だったのでしょう?目的を達することができなかった、残念な指導者の一人、無念な人生だった、ということになります。

 しかし、聖書は、そうは報告していません。
 
申命34:10 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。

と言い切ります。つまり、この世のゴールのラインを踏むことができなかったモーセでしたが、神の救いの歴史においては、「これ以上の人物はいなかった」「モーセに勝る預言者=神の言葉を預かって語る人」は、いない」と宣言しているのです。なぜなら、神が「選んで用いた」人物だったからだ(申命34:10-12)、と語ります。神の御業(=救いのみ業)を表すために、神はモーセを選んで用いられた。モーセは任務に忠実であり、最後まで忠実に歩みぬいた。だから、神はそれをよしとされた、という宣言です。
 世の中が描く「ゴール」とは、違う「ゴール」がここに示されています。人間の業を誇るのではなく、神の救いの御業に用いられたことが「ゴール」です。人間の目にはみえない「ゴール」といってもよいかもしれません。

[3]
 その意味でいえば、神の独り子主イエス・キリストのゴールも同じ質のゴールです。
 主イエス・キリストは、その地上でのご生涯の最後は「十字架刑」でありました。無実の罪をきせられ、それを「無実だ」とはねのけることもせずに、十字架におかかりになって悲惨な死を遂げられました。これは、人間の目、この世の価値観からいえば、「失敗」「敗北」「無念」「無力」の到達点です。事実、人々は「他人は救ったのに、自分は救えない」(マタイ27:42)といって侮辱しました。「お前の最後はこれだったのかい?」という嘲りです。

 しかし、人間の目からみたら「敗北」にみえるこの十字架こそ、通らねばならない大事な事だったのです。それは「人間の罪を取り成す・贖うため」だったからです。まさに「自分で自分を救えない」でいる私たちのために、究極の執り成しをしてくださったのが、主イエス・キリストの十字架だったからです。

 自分で自分を救えない人間なのに、自分で救えるかのように勘違いしていることは、本当に辛いものです。いや、その勘違いこそ「自分を苦しめている」ことに気付けないで、その不自由さの中でもがいている。あるいは、振り上げた拳を自分では降ろすことができずに、周囲を巻き込んで混乱させている…ここに人間の問題があります(拳をあげたまま、自分では振り下すことのできない世の為政者のいかに多いことか!)。

 こういう私たちには、第三者の助け、外からの助けが必要です。自分で自分を救えないのですから、何としても誰かの助けが必要なのです。それは、イスラエルの民の姿によく表れていました。自分達では自分たちのしていることの意味がわからずにおりましたが、そのたびにモーセが、神と民との間を取り成してくれて歩んできた歴史でした。…その究極の執り成してくださったのが、神の独り子イエス・キリストです。十字架において、私たちの罪を一手に引きうけてくださったかたらです。そして、主イエスにおいては、それが十字架で終わっていない。神の与えたゴールは、「復活」です。このゴールは、主イエスを通して与えられた私たちのための希望のゴールです。

[4]
 モーセの生涯は、困難の連続でしたが、そのたびに、神によって活路が与えられてきた人生でもありました。それは、自分のための活路ではなく、イスラエルの民という「信仰共同体」の為の活路(=新しい道)、でした。モーセは困難の連続ではありましたが、困難のたびに「神が共にいてくださる」ということを味わった生涯であったことでしょう。この世におけるゴール・ラインではない「神の与えて下さるゴール・ライン」をふむことのできた生涯だったことを思います。

 そのモーセを用いた神は、最後はご自分の独り子を世に遣わして、混乱している私たちの世界のために、私たちの罪のために「活路=新しい道」を開いてくださいました。
 それが、「十字架と復活」です。それが、神が主イエス・キリストを通して与えてくださった究極の「救いのゴール」です。

 世界の情勢、人間の現実は限りなく不安定です。
しかし、私たちは、この「神の与える救いのゴール」を知らされているのですから、罪赦された者として、それぞれの持ち場において、走り抜くべき行程を誠実に走っていこうではありませんか。 

 それが、神の望んでおられることです。 
安行教会 田中かおる牧師
(たなか かおる)
 




今月のみことば              H O M E