| 2026年10月のみことば |
| イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 (マルコによる福音書10章13~16節) |
ある日、イエスさまのもとに、子供たちを連れて来た人々(おそらく親たちでしょう)がいました。子供たちにも手を置いて祝福していただきたいと思ったからです。ところが、イエスさまの弟子たちはそれを拒みました。彼らのこの態度の背後には、年齢からしてイエスさまのお言葉を聞いても分かりはしないし祝福していただく資格がないというふうに子供たちのことを値踏みする考えが潜んでいたという見方ができるでしょう。それに対してイエスさまは憤慨され、「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。そして「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福され」ました。 ここに、教会の主であるイエスさまのお考えが表れています。ここでの祝福は必ずしも洗礼を意味するとは言えないかもしれませんが、大人だけでなく子供も救いの中に入れられることを望まれたというお考えです。イエスさまが子供も救いの中に入れられたのは、当時軽んじられていた子供の人格をお認めになったからでもあるでしょうが、子供のように様々な点で不備で貧弱な者をも救いの中にお入れになったということのほうが大事です。ここで言われていることは、信仰において子供がどういうふうに受け入れられるかということだからです。 そこで問題になるのは、「神の国はこのような者たちのものである」と、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、そこに決して入ることはできない」ということです。私たちがイメージする子供とは、無邪気で無欲で素直というふうでしょうか。しかし子供は、大人に比べると無邪気そうに見えますが、実に欲張りでわがままです。 そうであるならば、イエスさまが言われる「子供のように」なるとはどういうことなのかが大事になってきます。ここで「子供」とは、子供に見る“小さな姿”、“存在の仕方”のことだろうと考えられます。その“小さな姿”が暗示するものは何でしょうか? まず子供に見る“小さな姿”とは、世の中の誰よりも弱くて無防備で不備な存在だということです。家族や社会の人々に支えられ養われなければ生きていけません。赤ちゃんのように小さいほど放置されたらすぐ死んでしまう無力な存在です。実は大人もそういう点で同じです。もちろん大人は、自力で自らを養うことがある程度できます。しかし、周りの人々に支えられ養われなければ生きていけません。大人も、実は小さいのです。神の国、神の救いを受け入れる、そして神の祝福を受け取るに大事なことは何かと言えば、自分が本当に小さい者であること、助けてもらわなければ生きていけない者であることを知ることでしょう。そういう謙遜さが大事なのだろうと思います。 次に子供に見る“小さな姿“とは、神さまによって創られた私たちであるということを知ることでしょう。天地を創造された神さまと比べたら、私たち人間は問題にならないほど小さくて貧弱な者です。自分も他人もいつ生まれていつ死ぬのか分かりません。それは、人を創られた神さまのみご存知です。神さまがお創りになった人間は、神さまがお創りになった地で、神さまの(愛の)御心のままに生かされる他はない。そのような、自分によってではなく神さまによってでしか生きられない自分だと知ることが、神の国、神の救いを受け入れる、そして神の祝福を受け取るに大事なのだろうと思います。そして子供に見る“小さな姿”を通して最も暗示されていることは、どの人にも罪があるということでしょう。小ささを知るには、自分の罪を知ることだと思います。悔い改めても、神さまに背を向け神の御心から離れて行ってしまう私たち。信仰というのは、どこまで行っても不完全で貧しいのでしょう。そのような罪人に代わって、イエスさまはご自分の体を裂き、血を流し、命を献げて下さいました。それだけの犠牲が払わなければ、救われない私たちでした。 その十字架の贖いによってのみ、私たちのあらゆる罪は滅ぼされ、命の道に入れられる。そういう小さな者だと知ることが、神の国、神の救いを受け入れる、そして神の祝福を受け取るに大事なのだろうと思います。そして、実にろくでもない私たち罪人を、神さまというお方は都合により付き合ったり見切ったりなさらず真に命注いで関わり続け救ってくださった!生かしてくださった!という神さまでしか為し得ない御業を知った者は、「子供のように神の国を受け入れる人」、つまり謙遜な人とされるのだと思います。そしてどの人が祝福されても喜べるのだと思います。 自分の人格や能力によって、自分も他者も救えるとか神の国に入れるというように思い偉ぶるのは、神の国、神の祝福から遠いことになります。神の国に入れるということに、私たち人間の側には何の条件も値打ちもありません。それは神さまがお決めになることであり、神さまからの一方的な恵みです。 そうだとすれば、神の国に入った者の生き方というのは、イエスさまが携えて来てくださった神さまからの祝福を受け取っていく生き方でしょう。その祝福は、弟子たちにこそ注がれていました。それを子供にも分けようとしない偉ぶる弟子に対して、イエスさまは憤慨され、祝福を受け取るに大事なのは何かをお示しになりました。そして、イエスさまが小さく不備な自分に手を置いて祝福してくださったことを、誇るのではなく感謝し生きていくのが弟子たちの生き方であり、私たちの生き方であることをお示しになったのだろうと思います。そのような本当にすべての人にとって大事なことを、言葉でそして身をもってお示しくださる神さまに感謝です。 |
| 東大宮教会 上田真由美牧師 (うえだ まゆみ) |
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