日本基督教団関東教区の埼玉地区壮年部は、2003年9月14日(日)午後2時半から、さいたま市下町の大宮教会を会場に、「老いを生きる」をテーマにした講演会を開催した。
講師は神奈川県横須賀市にある社会福祉法人横須賀基督教社会館の館長で、神奈川県立保健福祉大学長の阿部志郎先生。埼玉県内の27の教会などから約100人が出席した。
講演の中で阿部先生は、人生に下り坂はない。老いの坂を下り切った先に死があるのではなく、人生の「完成」、「完結」を目指して老いの坂を上り詰める。その先に天国の門がある。老いも若きも集う教会での神様との信仰を通じた交わりの中で希望を見出すことができる。人生を支えてくれる。これは神様からの私どもへの約束であると説いた。
これに先立つ開会礼拝では、坂戸いずみ教会の山岡創牧師が「白髪になっても実を結ぶ」と題して説教。神様に全てをお委ねし、従うことによって得られる平安と希望によって私たちは白髪になっても実を結ぶことができるという心温まるメッセージをいただいた。
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上松 寛茂(壮年部委員、上尾合同教会信徒)
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老いを生きる (講演要旨)
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三浦半島の横須賀からまいりました。横須賀という町、戦前は日本海軍、戦後は米軍の基地でございますので大変イメージが暗くてこれを何とか明るくしたいといって様々な試みをしていますが、その一つが名産品を売ることなのです。どんなものかといいますと、ワカメ、私の施設の裏山が「梅の里」と申しまして2400本の梅が植わっています。たくさん実ができます。ワインをつくりまして、1万本売るんですが、数が多くないもんでなかなか手に入りません。小泉さんの出たまちですから小泉さんの顔を刻んだ「純ちゃん饅頭」があり、売り出した直後は行列ができたのですが、最近はなぜか売れていません。もう一つ持ってまいりました。「横須賀海軍カレー」といいまして今、一生懸命これを宣伝しているところです。きょうもその宣伝をさせていただきます。
乗組員の脚気に海軍、ショック
明治15年という年ですが、「りゅうじょう」という海軍の軍艦が当時の横須賀に帰ってまいりました。376名の乗組員がおりました。その中の169名が脚気にかかっておりまして動けませんでした。25名亡くなりました。この事実に海軍がショックを受けました。半数近くが動けない状態でした。陸軍も事情は同じ、日清戦争の時は戦闘能力が著しく低下しておりました。日露戦争では110万の兵隊が動員されました。その中の25万人が脚気でした。そしてその脚気で2万8千人が亡くなりました。ちなみに戦死者は4万5千名でした。戦うことができなかった人が大変多かった。脚気というのはご存知のはずです。若い人には脚気という言葉は通用いたしません。一種の栄養失調症です。足が動けなくなり、そして死に到ります。私の子供のころには脚気の人が「朝の芝露を踏むといい」という話があり、一生懸命芝の上を歩いていたのを覚えています。一種の国民病でもありました。
脚気の原因は白米に関係
たくさんの犠牲者を出しておりました陸軍に対して日露戦争の時、海軍は脚気で亡くなった方は3人しかいなかった。大変な差がついたわけであります。海軍に劇的な変化が起きていた。海軍の一番のトップである軍医総監のタカギカネヒロという人がこれは白米に関係があるのではないかと考えたんです。白米の食べすぎだろうと。「何とか白米を止めさせろ」ということを一生懸命努力いたしました。そのために実験をしたい。船を航海に出して乗っている水兵の食事を変えて脚気がそれでなくなるかどうか実験をしたいと考えたわけです。ところが海軍省は予算がない。当時の海軍省の年間予算が300万程度。一航海6万円いるのです。とても海軍は支出できない。政府もこれに同意を致しませんでした。
明治天皇が脚気対策費をご下賜
ところがたまたまタカギ総監が御進行にまいりました明治天皇がその話を聞きまして「自分が出そう」と言いました。6万円を明治天皇が出しました。実は明治天皇は脚気でございます。皇后も脚気でございました。寺内陸軍大臣も実は脚気でした。6万円というのは今のカネにすると20億円という大変大きな額です。「つくば」という軍艦に373名の水兵を乗せて287日間の航海に出ました。一切米の飯を船に乗せませんでした。パンとビスケットを食べさせました。軍隊の食事というのは副食が貧しかったのですが、ふんだんに肉、魚、野菜、果物を供給いたしました。その結果、一人も脚気の死亡者が出ませんでした。16名が脚気の症状を呈したのですが、脚気になりました水兵はパンを拒否いたしました。ビスケットは海に捨てました。ミルクも一切飲みませんでした。その結果、脚気にかかったのですが、タカギとしては輝かしい成果を挙げました。タカギは勿論辞表を懐にしていたのです。この時から海軍は食事を変えたのであります。米を止めまして麦飯を一緒にし、パンを採用しました。ところが陸軍はこれに反対を致しました。陸軍の軍医官、間もなく総監になりましたのが森鴎外、森林太郎と申します。森鴎外はこれに反対をしました。タカギカネヒロという海軍の軍医は英国に留学をしてセントーマスというロンドンにある大きな病院で研修を受けて最優秀の成績で卒業しました。ここの病院でドクターたちが貧しい人たちにも診療している姿に大変感銘を受けました。もっと心を打たれたのは看護婦でありました。
日本の看護婦専門教育の始まり
看護婦は気品がある。医学の知識を持ち、手術まで手伝っている。初めて看護婦を見たのです。それまで日本の病院にいた女性は「賄い婦」だけでありました。タカギは帰ってきまして明治18年に「セイイカイ」という団体をつくり、これが医学校を始めます。これは今日の東京慈恵会医科大学です。そこに看護婦教育所というものをつくりました。ここから日本の看護婦の専門教育が始まりました。英国の教育を受けたタカギに対して森林太郎並びに陸軍のトップは全部ドイツで研究をした人々です。当時の東京大学がそうです。森林太郎はドイツでコッホという医学者の指導を受けました。
コッホというのは結核菌、コレラ菌を発見した大変有名な細菌学者です。日本にも来たことがあります。しばらく鎌倉に滞在、稲村ガ崎にはコッホの記念碑があります。コッホの弟子だったので陸軍は挙げて脚気は細菌の感染であるという理解に立ったのです。海軍はタカギによって脚気がなくなった。しかし、森はそれに対して理論的根拠がないと対立をしたのあります。確かにタカギには理論的根拠はなかったのです。この病的根拠と申しますのは、実はだいぶ遅くなり大正10年になって鈴木梅太郎がビタミンを発見いたします。脚気というのはビタミンBの欠乏であることが分かるわけです。それはだいぶ後のことです。陸軍は白米にこだわりました。白米にこだわったのには歴史的な事情があったと思います。昔、貧しい時代、特に東北、新渡戸稲造というのは岩手の出身です。南部にまいりますと、今でも残っている言葉に「めのこ」という言葉があります。めのこというのは粟、稗、豆、もろこし、海草を混ぜたものです。白米ではないのです。農民が白米を作る。しかし、農民は白米を食べることを許されませんでした。
森鴎外の悲劇
白米を食べることができたのは正月と婚礼といった特別な時だけです。普段は食べられませんでした。病人が出て白い粥飯を食べさせたい。しかし、禁じられていますのでやむを得ず竹筒の中に白い米を入れて病人の耳元で振って聞かせました。「振り米」という言葉のこれが語源であります。こういう生活を強いられておりました農民たちは、実は明治に入っても白米をほとんど食べたことがありませんでした。軍隊は毎日6合の白米を給したのです。そこで、みんな喜んで軍隊に行ったのです。軍隊に入るのは一つのあこがれでした。「米を6合食べられる」こういう経緯がありましたので陸軍は止めるに止められなかったのです。こうした歴史的背景があろうかと思いますが、これが森鴎外の悲劇であったといわれ、「森鴎外の悲劇」という本が出ています。こういう物語があり、タカギが英国から採用した食事の一つがカレーであります。ところが水兵たちは「パンでは腹に力が入らない」と文句を申しましたのでやむを得ずご飯にカレーをかける。
日本式カレー
カレーには肉と必ず野菜を入れるという「日本式カレー」で、これは本家のインドにもなく、英国やアメリカにもない日本式のカレーをつくったのであります。面白いことに、例えば、うなぎというと嫌いな方が必ずおられます。ねぎは食べない。ピーマンは嫌いという、いろいろな方がおられますが、「カレーが嫌い」という言葉に私は会ったことがないのです。日本人の口にあったのだと思うのです。海上自衛隊では今でも毎週金曜日はカレーでございまして、そういうことから横須賀市役所も金曜日には市長以下カレーを食べています。そういうのがきょうの宣伝であります。
プロテスタント最初の礼拝
なぜこれほど日本の国が陸軍、海軍という軍隊に力を入れてきたのか、今からちょうど150年前の7月の8日に浦賀沖に黒船がやってきました。「太平の眠りを覚ます蒸気船。たった4はいで夜も眠られず」と村の人々は伊豆の大島が移ってきたという表現をしておりまして驚愕したのです。船が黒く塗ってあったのでこれを「黒船」と言いました。幕府も同じで、直ちに寛永寺と増上寺で国難克服の祈祷をささげるという、大騒ぎをしております。最初の日曜日が7月の10日でした。この時、軍艦の上で礼拝がささげられているのです。歌いました賛美歌が私どもの賛美歌の5番であります。この時読まれた聖書が詩篇100篇でした。これが「日本におけるプロテスタントの最初の礼拝」でありました。
日本初のキリスト教葬儀
その翌年のペリー艦隊、再び横浜に来た時にも賛美歌の5番が歌われています。司令長官のペリーという人は大変熱心なクリスチャンでありまして7月10日の日曜日は日本の役人の乗艦を一切断り、安息日を守っています。日本に来たペリーですが、その使命は「開国をさせる」ためでした。しかし、それが日本伝道の門戸を開くことになるならば「これほどの幸せはない」と書き記すほどの熱心なキリスト者でした。この翌年にペリー艦隊が函館にまいりましたが、その函館で2人の水兵が死にました。その水兵の葬儀が函館のお寺で行われました。これが「日本における最初のキリスト教の葬儀」で、「函館の外人墓地の第1号」がこの2人の水兵でした。
翌年に日米和親条約が結ばれ、その結果1857年にタンゼント・ハリスが領事として日本にまいりました。下田から江戸に入ります。ハリスは12月の6日がちょうどアドベントの第2主日でありました。人に聞こえるように大きな声で祈祷書を読みました。聖書を読みました。聖公会の信者です。当時キリスト教の礼拝をするということは処罰の対象でした。彼はあえてみんなに聞こえるように大きな声で聖書を読んだのです。そして踏み絵を廃止させるという決意をこの時、書き記しまして事実、ハリスの主張によって踏み絵の廃止が実現しました。ハリスも自分の領事としての日本に来た責任において、もし宣教の扉が開かれるならばこれは光栄な任務であると書き残しております。
このハリスが米国の教会に進言を致しました。「宣教師を日本に送れ」と。米国の教会が1859年に家族を入れますと、約60人ぐらい、たくさんの宣教師を日本に送ってまいりました。この中には皆さんがご存知の有名な宣教師たちがいます。ヘボン、「日本では最初に聖書を翻訳」し、「ヘボン式ローマ字」を考え、「シロ教会」という横浜にある「日本で最初のプロテスタントの教会」を建て、明治学院を創設させるという、こういう方でした。
ヘボン、日本で最初の点眼薬つくる
ヘボンは医者で、当時売れっ子の歌舞伎の「タノスケ」という俳優の足を切ったのでございます。アメリカから義足を取り寄せました。これは「日本で最初の義足」です。タノスケはその義足をはいて舞台を務めたということです。ヘボンの評判が大変高くなります。
ヘボンは眼科医です。「最初の点眼薬」をつくりました。これを「セイキスイ」と申します。これを売り出しましたのが「キシダギンコウ」ともう一人、館林(群馬)の「正田サクサブロウ」でした。正田は今の皇后の曽祖父に当たります。「ゴーブル」という宣教師はバプテストです。ペリー艦隊の水兵でした。日本にまいりまして伝道の志を立てて米国に帰り神学校に学んで宣教師として戻ってきました。ゴーブルが「人力車を考案」したのです。
「植村正久」、「井深梶之助」、「本多庸一」
ブラウン・バラという宣教師は、これも大変著名な宣教師で、ここから育ってまいりましたのが「植村正久」、「井深梶之助」これは明治学院、「押川方義」東北学院、「本夛庸一」青山学院といった人たちです。「岡倉天心」もその一人でした。
46名の欧米大型使節団
「シモンズ」というやはり医者の宣教師がおりました。シモンズが作りました薬の中に「セメンエン」というのがありました。私、子供のころ病気をしますと、富山の売薬がいつもあり、その中から飲まされたものです。その中に「虫下し」のセメンエンがあったのを覚えています。セメンエンは今でも富山の池田屋という古い薬屋さんにあり、作っております。これはシモンズが作った薬です。
「フルベッキ」という宣教師がおりまして、フルベッキの弟子が「大隈重信」、「副島種臣」で、こういう政府の重臣になった人々を通してフルベッキは明治政府に影響力を持ちます。今の東京帝国大学の創設にも参画しました。フルベッキの提案を政府が受け入れて大型使節団を欧米に送ることになりました。これがフルベッキ団です。「岩倉具視」を団長にして「木戸孝允」、「大久保利通」、「伊藤博文」、まだ31歳でしたが、46名の大型使節団を欧米に送ったのです。この時、5人の留学生が一緒についてまいりました。その一人が津田梅子でした。年まだ7歳のお嬢さんでした。その使節団がアメリカに行って、ここで通訳をした一人が「新島襄」であります。同志社の創設者です。この使節団は2ヵ年にわたって12カ国を視察をして帰ってきてから日本の政策を作ったのであります。最初にアメリカに行って驚愕したのがアメリカの科学技術の進歩であります。日本は40年遅れていると認識を致しました。ここから「ヨーロッパに追いつけ」という合言葉が生まれるのであります。
キリスト教に嫌悪感
しかし、文化の面はあまり感心致しませんでした。パーティーに呼ばれてまいりまして女性が上座に座って、そしてご主人が一生懸命サービスをして、日本では「接待」というのは男性だけのもので、女性は酒のお酌をするために「はべるだけの存在」で、女性が「上」に座っている、アメリカは「かかあ殿下」などと書いています。醜悪である。その人々が世に出る政府、痛恨のざれ言ではないか、とキリスト教に対しては「嫌悪感」を持ったようです。
中 略
「ボランタリズム」
日本も福祉国家を目標にしてまいりましたが、ヨーロッパで福祉国家と呼ばれる国々をつくりましたのはプロテスタントの国々です。こういう社会保障とか、福祉とか、あるいは福祉の国家というものをつくり出してきた大きな力があります。これを日本は学ぶことがなかったというのは大変残念なことです。これを「ボランタリズム」という言葉で表わすわけです。市民が自主的に政府に強制されてではなく、自主的に自分で活動を起こしていくことです。このボランタリズムというのは、「自由教会」、ちょっとスペルが違うんですけれども自由教会があります。即ち国家の支配を受けず、教会員が自分たちで献金をし、自分たちの力で教会を維持していく、これをボランタリズムというのです。教会が実はこうした思想を生み出しました。これを日本は学ぶことがございませんでした。戦後も実は大変遅れて、50年たった今日に至り、ようやくこのボランタリズムを今、見直しているところであります。3年前に新しく法律が変わり、ここでやっとボランタリズムというものの考え方を採り入れるということになってまいりました。
さて、戦争が終わり、日本は富の4割を失いました。生産力は戦前の10分の1に落ちましたので窮乏でございます。焼け野原、食べるものがない。着る着物がない、という時に米国から救援物資がまいりました。覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、これをララ、「ララ物資」と申しました。ララ物資というのは、北米の教会の人々が運動を起こして私どもに送ってきた物資です。戦争をしているさなかに「日本は敗戦をするだろう」と、困るものは社会問題。食べるものがない。着る物がない。今から教会でみんなで集めて送ろう。これがララ物資であります。当時の額にして400億円。1200万の国民がこの恩恵に浴しました。
信仰の証しとしてのララ物資
教会の人々が送ってまいりましたけれどもララ物資には一言もキリスト教という言葉を使わなかった。匿名でございます。信仰の証しとしてのいわば活動でございました。伝道には一切、ララ物資を用いることがありませんでした。しかし、日本のララ物資の責任者になった方が3人いらっしゃいます。
世界救援史で特筆すべき出来事
マットという方、ミスローズ、ペルセッカーという3人の方々であります。マットさんというのは、日本基督教団の戦前の宣教師です。ローズさんというのは「フレンド学園」の園長をしておりました。ペルセッカーというのは京都の神父さんです。3人とも日本の事情に通じ、日本語を巧みに話す方です。こういう方を現地の責任者として任命したというのが一つの特徴であります。そしてララ物資というのは闇に流れることがありませんでした。これは「世界の救援の歴史」では特筆すべき出来事でした。物資をいただいた私どもよりも闇に流れなかったことに米国が感謝したほどです。この物資が誰に配られたか。病人、子供、障害者、小学校、病院、社会福祉施設を優先しました。即ち弱さを持つ人々に重点的に配分されたのです。強さだけを重んじてきた私ども社会にとってこれは大きな価値観の変化を意味していました。弱さを持つ人、ヨハネの手紙15章に「あなた方、強いものは弱さを持つ人を守らなければならない」、自分自身を喜ばせてはならない、と書いています。弱さを担う、それが真実の人間の強さだと聖書は私どもに教えておりますが、それを実践をしたのであります。私はこういう米国の教会が示した「大きな信仰的な行為」であり、そのために私どもは価値観を変えざるを得ないということを学んだのだと思います。
「犬食い」
日本の社会、経済が復興して豊かになってまいりました。豊かになりましてまた、豊かさに伴うさまざまの問題にも悩まされます。
私のおります横須賀という町で大変困った教育問題に直面しました。中学生が学校に弁当を持ってまいりますのに箸を持ってこない生徒が出てきた。教師が「箸持ってこい」と言うと、「俺、箸なくても食える」と開き直る。箸なくてどうやって食べるかというと、弁当箱にかぶりついて食べます。まるで動物が食べるように食べますので先生たちはこれを「犬食い」と呼びました。横須賀に公立中学校が25校あります。全部に広がっていた。私たちはパン無くして生きることは出来ません。衣食住は基本的欲求ですから充足させなければ生活出来ません。日本でいちばん受ける芝居は「忠臣蔵」です。12月になりますと、テレビはみんな忠臣蔵になります。「花見の茶屋」という場面があります。大石内蔵助が茶屋遊びをし、酒に酔いしれ、市井の人が足蹴にした食べ物を四つんばいで食べるのです。内蔵助が仇討ちをする意志を持っていないことを表そうと致しました。パン無くして生きることは出来ない。しかし、そのパンはいかなる形でも与えられればよいというものではないのです。私どもの求めるパンは権利としてのパンです。権利は自分自身に属し、手にしようと思えば手に出来るものを権利と申します。人が上から下へ投げ与えたものを犬のように四つんばいになって食べたいとは、あのひもじかった戦中、戦後誰ひとり願いませんでした。なぜならそれは人間の心を失うことを物語るからです。
上を仰いでやまない存在が人間
動物と人間は違います。動物は下を向いて餌を求めてさまよい歩きます。餌を得ることが動物の生活の目的であります。人間は衣食住を手段にしてより高い人生を求めてやみません。人間という言葉は「アントローポス」という言葉からきています。その意味は「上を仰ぐ」ということです。上を仰いでやまない存在が私ども人間であります。「犬食い」それは豊かさの故に、飽食の故に手段であるべきパンがいつの間にか目的化されたのではないかを心配致します。パンが目的化されるということは「生きる意味を失う」ということです。今、私たちが直面している状況というのはまさにそこなのではないか。
サラリーマンの定年後
友人がサラリーマン生活を送りまして定年になりました。社長から辞令をもらい、若いお嬢さんから大きな花束をもらって家に帰ってきましたが、午前2時。ひとりで帰れませんので3人の部下が抱えてご機嫌で帰ってまいりました。一晩寝た翌朝、目を覚まして愕然とした。きょう起きて行くところがない。きのうまでごく自然に会社に足を運んでいたのにきょう、どこに行っていいのか分からない。手帳を開ければきのうまでスケジュールがびっしり、きょうから空白。これほど孤独を感じたことはない、と申しました。私どもは役割を失いますと、孤独になります。しかし、孤独というのは何よりも存在感そのものの喪失です。生きる意味を失うということです。こうした中で経済がだんだんと成長し、なぜだか高齢化致しました。
あれよあれよという間に高齢化
40年前に私どもの社会は今日のように子供が減って老人が増えるということを予想できた人は実は一人もいなかったのです。あれよあれよという間に高齢化致しました。老人福祉法という法律が出来ましたのが、昭和38年でした。この年に100歳を越えた方が153人いらっしゃいました。あすの敬老の日に100歳を越えられる方が何人いるか。2万人を越えたのです。倍増ではないのです。十何倍です。100歳を越えたということは誠にうれしいことです。
世界の1、2位を争う老人の自殺
年寄りが増えてなぜか反対に子供が減る、こういう現象が今、進行しておりまして寿命が高くなる。世界一になることは有難いことですけれどもその裏側にやはり問題が生じてまいりました。20年前に「6カ月以上寝た切り」というお年寄りが20万人でしたが、現在介護保険の認定を受けた方が413万人いるのです。ますます増えてまいります。そして149万人の方が痴ほうに悩んでいます。ご本人は悩んでおりません。周りが悩んでいるだけの話です。そして老人の自殺が増加しています。世界の1、2位を実は老人の自殺が争っており、増加をしているのです。アメリカもヨーロッパも増えておりません。日本だけが増加しているのです。これが老人問題といわれるものです。世界のどの国も困っているだろうとご想像になると思われますが、そうではありません。世界の3分の2以上の国々に老人問題はないのです。
豊かになった国の持つ矛盾が老人問題に
まず寿命が短い。今問題のイラク、日本人の半分の寿命しか生きられません。その数少ないお年寄りが昔ながらの家族や地域の共同体に守られて問題として浮かび上がらないのです。老人問題というものは社会の構造がもたらす問題で、これに苦悩しているのがヨーロッパ、アメリカ、日本、即ち科学が進み、豊かになった国の持つ矛盾が老人問題に現れてきたといっていいのではないかと思います。こうした老人の問題の中で「老い」ということが問われるようになりました。10年前まで「老い」について論じたことはほとんどなかったのです。今は毎日のように新聞や雑誌で「老い」を取り上げています。
お釈迦(しゃか)様が若いころ「シッタルダ」と申しました。インドとネパールの国境沿いのブンビニーというところにおり、大きな領土を持った領主で、埼玉県よりはるかに大きな領土を持った領主の息子でございます。城の中に暮らしてめったに外に出る機会がありません。ある日たまたま町に散歩に出掛けまして見慣れぬ人に出会いました。腰が曲がり、杖をついて頭の毛は落ち、顔はシワシワ。目はしょぼしょぼ、口からあぶくを吹きながら何事か、ブツブツつぶやいている人がいます。びっくりした王子があれは誰かと聞きますと、行者が「老人でございます」と答えました。これはシッタルダが初めて目にした「老人像」でありました。若さの無知とごう慢の故に「老い」について見たことも考えたこともなかった。しかし、自分自身の未来の老いの姿ではないか。人生の喜びや楽しみが何になろう。さあ、帰ろう」と言って城に取って返したというエピソードが今日まで伝わっております。お釈迦さんになる人ですから悩み苦しんだあげくに悟りを得ます。「釈尊」と呼ばれます。年35歳でありました。私ども凡人はなかなかこうは行かないのです。
老後をどう生きてよいのか分からない
老いるということにやはり大変悩むわけです。それは私どもが持ってまいりました人生観が教えるところでございます。2つの坂を想定致しました。「上り」と「下り」。子供からだんだん大きくなり、青年になり、働き盛りの壮年になる。しかし、いつの間にか山の頂に達します。社会的には「定年」です。永らく「55歳定年」でした。これは「人生50年時代」の取り決めなのです。「人生80年」になってようやく定年が60になりました。
奈落の底を覗く
定年になった後、もっと山に登りたいのです。見回しても「登り坂」がない。どう生きてよいのか分からない。その後、10年、20年、30年と生きなければならないのに。なぜなら日本社会が経験したことがないのです。「上り坂」は見当たらない。あるのは下り坂だけです。やむを得ず下り坂を下りてまいります。出来るだけゆっくり下りようと思うのですが、下りですからつい足が速くなってくるんですね。この下りの一番のふもとに「死」が待ち受けます。奈落の底を覗くんです。
老人の自殺は「老いの拒否」
民族の比較調査によりますと、日本民族は死に対する恐怖感が非常に強いのです。ここは光が差さないのです。この「下り坂」、これを「老い」と考え、トボトボふもとを目指している人を「老人」と呼び習わしてきました。希望がないです。誰しも下り坂を下りたくない。若い人だけではありません。老人も同じです。老人の自殺というのは「老いの拒否」です。ここからどういう思想が生まれてきたか。「ポックリ信仰」というのがあります。特に関西、中国、四国には、「ポックリ寺」と呼ばれる寺がたくさんあります。東京にもございます。お年寄りがバスを連ねて毎日お参りに来る。ある老人会がお参りを終えて三々五々、バスに帰ってくる途中、一人の老人が倒れた。文字通りポックリ亡くなってしまいます。同行した仲間たちは「効き目が良すぎる」と言ったんです。お参りしたすぐ後でした。申しますのは道端で死にたくない。畳の上で死にたい。これが私どもの思いなのです。
「ポックリ死にたい」
調査によりますと一番大きな回答は、「畳の上で家族に取り巻かれて死にたい」、「ポックリ死にたい」、「痛みもだえて死にたくない」、「家族に迷惑を掛けたくない」。これが私たちの最大の願望なのです。畳の上で死にたい。でも実際に畳の上で死ねるのは16%しかいません。大変興味深いことは私たちはポックリ死にたいと願っておりますけれどもヨーロッパの人はポックリ死にたくないんです。いやなんです。ポックリは。なぜいやなのかと言いますと、死ぬ時は「自分の人生をゆっくり振り返りたい」、「友達と別れを惜しみたい」、「家族に感謝したい」「何よりも天国に行く準備をしたい」。ポックリ死にたくない。ここから何が生まれたかと申しますと、「ホスピス」なのです。
生きることを助けるホスピス
ホスピスというのは、死を待つところではありません。「死にゆくところではないのです。「最後まで生きるところ」「生きることを助けるところ」なのです。即ちヨーロッパがつくってまいりました思想、考え方、これは教会の一つの文化でございますけれども死というものを私どものように山のふもとの低いところに置かないのです。
死を山の頂きに
死を山の頂きに置くのです。これが大きな違いです。私が長いこと働いてまいりました横須賀基督教社会館という施設の前任者はアメリカの宣教師の先生で、大変立派な方でした。この方がアメリカの老人村で最後までボランティア活動をしながら亡くなられました。その葬儀に私も参りました。一人息子がおりましてその彼が、私が弔辞を述べるものですから私を紹介がてら集まってきた方々に挨拶をしたのであります。私は講壇の後ろで挨拶を聞いておりました。こう言うのですね。「きょうは父親のセレブレーションの日です」。私は後ろで聴きながら「おやっ」と思ったのです。セレブレーションて何かなあと思ったのです。私の知っているセレブレーションというのは「お祝い」という意味です。まさか葬式でお祝いというはずがないと思ったのです。後で字引を引いたんです。セレブエーションという言葉には、お祝いという言葉以外に意味がないんです。お祝いなんです。
父親の葬儀はお祝いの日
息子が葬儀で「きょうは父親のお祝いの日です。天国に凱旋(がいせん)するお祝いなのでございます」。私は感動致しました。人生の頂きにその死を置いているのです。賛美歌284番をお開けになりますと、大変不思議な言葉が書いてあるのです。「老いの坂をのぼりゆき」。「老いの坂」は「下り坂」なんです。森鴎外もそう言いました。「老いの坂を下って行く」と書いています。常識です。
人生に下り坂はない
ところが賛美歌は「老いの坂を上る」と書いてある。これがキリスト教の考え方だと思います。人生に下り坂はない。人生は一足一足最後まで上って行く。上って上って上り詰めたところに死がある。それが「天国の門」である。そういう理解なんです。
100歳になった方の私はお祝いのパーティーに参りました。その方は100歳を迎えて2カ月後に亡くなられました。その方は97歳の時に痴ほうになられまして、ちっと暴力を伴ったものですから大変周りは苦労致しました。でも私はその人の死に顔を見て実に美しいと思いました。誠に平安な死に顔でございました。直観的に私に浮かびましたのは100歳のことを「上寿」と申します。99歳が「白寿」といい、どなたもご存知ですが、99歳を超え、100歳になりますと、「上」の「寿」、上等の寿と書き、「上寿」と申します。「じょうじゅ」は「事成就セリ」という言葉がございます。その成就に通じていると思います。
上寿は「完結」
上寿は「完結」でございます。この方にはいろいろなことがあっただろう。しかし、この方も「100歳において完成した」と私は思いました。私どもで分からないことは何歳で死ぬかということ。子供の時に死ぬ人もいます。何歳まで生きられるのか分かりません。どこで死ぬかも分かりません。病院で死ぬのか、畳の上で死ねるのか、路上でパッタリ倒れるのか、分かりません。どういう状態で死を迎えるのか。そのとき家族が周りにいたのか。お医者さんが看取ってくれたのか、看護師がいたのか、いや、独りぼっちで孤独死するのか分からない。
人生の完成に向けて歩き続ける
しかし、人間何歳で死のうと死というのは人間にとって人生の、人格の完成を意味しなければならないのではないか。その完成に向けて私どもは歩き続けて行く。それが私どもの人生の歩みでなければならないだろうと私は考えるようになりました。人格の完成に向けて、だから老いの坂は上るのです。決して下るのではない。上りなんです。
人生を支えてくれる教会
教会というのはその人生を支えてくれます。私は神学的意味ではなく、社会学的な意味で教会というのは大変面白いところだと思っております。教会というのは老いも若きも集うんですね。赤ちゃんもいるし、年寄りもいる。こういうグループを皆さんは他にお持ちになりますか。今は女性は女性。ここへ来るとき、私は鎌倉を通ってくるのですが、鎌倉で一番見かけるのは中年女性のグループです。男いないですよ。その時は。クラス会、同好会、みんなグループで固まっていますね。大学では学年が違うとグループが違うのです。「話が出来ない」と1年違いで言っています。だんだん機能化されてくるのです。ところが教会というところはみんなが集まるんですね。そして一つの交わりを持つ。きょうは皆さん方のそれぞれの教会で敬老会をお持ちだったようです。私のところもきょう、教会学校の生徒たちがさっきの山岡先生の話ではないですが、夏のキャンプに行って植木を育てましてそれを一つずつ私どもにくれました。そして青年会は食事を作ってくれた。私は時間の関係で一口だけ食べて飛び出さざるを得なかったのでございますけれどもこの社会を皆さんは他にご存知ですか。今、そういうグループはほとんどないのです。
縦と横の糸が切り結ぶ教会
教会というのはみんなが集まる。しかも開かれているんです。来ちゃいけないなんて言わないのです。どなたでもどうぞと、温かく迎えるのが教会です。そしてそこは皆平等なのです。過去を問わない。どういう仕事をしているか、肩書きを持っているか、誰も問題にしない。誰であれ全く対等。牧師先生を中心に横につながる。しかし、同時に一人びとりが神様との交わりに召されている。その縦と横の糸が切り結ぶところでございます。
そして教会に来て自分の幸せを祈らないですね。いや、祈らないわけではない。しかし、人の幸せを皆さん、祈るんですね。自分の利益を計らず友達が病気をしている。祈りを捧げ、慰める。人の事を考え、人の事を心配してその人に対して神の祝福を祈る特異な集団だと私は思います。しかも年にいっぺんの同窓会の集まりではないのです。毎週継続的に集まるのですね。毎週、先ほど山岡先生のお話の92歳の方のお話。教会の礼拝に出席することは一つの目標ですね。その目標を持つということは実に大事な事なのではないでしょうか。しかも教会というのは生きている間だけではないのです。死んだ後、記念されるのです。これもあまりない社会でございます。
神様の私どもへの約束
そういう意味で私は教会というのは非常に珍しい社会集団だと思っておりましてこういう教会の交わりの中に入れられ、支えられるから人生の上り坂を上っていくことが出来るのではないか。そう思わずにはいられません。白髪になってもなお実を結ぶ、命あふれるという大変山岡先生にきょうは励まされました。イザヤ書46章の言葉でございますが、こう書いてあります。「私はあなたをつくった故に白髪に到るまで、老いの日まであなたを背負い、運び且つ救う」。あなたを背負い、そして救う。これが神様の私どもへの約束でございます。この約束を信ずる。それが信仰ということではございませんでしょうか。
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阿部 志郎先生のプロフィール
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1926年、東京に生まれる。49年東京商科大学(現一橋大学)卒、同年明治学院大学に奉職、同大助教授を経て57年、社会福祉法人横須賀基督教社会館館長に就任、現在に至る。この間、50年米国ユニオン神学大学留学。明治学院理事長などを歴任。現在、東京女子大学理事長、厚生労働省社会福祉士国家試験委員会委員長、神奈川県立保健福祉大学学長。日本基督教団横須賀田浦教会員。
主な著書は次の通り。
「新しい社会福祉と理念」−社会福祉の基礎構造改革とは何か(共著、中央法規)、[地域福祉の思想と実践](海声社)、「福祉の心」(同)、「ボランタリズム」 (同)、「福祉の哲学」(誠信書房)など多数。
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社会福祉法人「横須賀基督教社会館」とは
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「安心して子どもを生み育てられ、誰もが共に生きられ、長寿を喜べる社会」を基本理念に、終戦の翌年1946年、旧日本海軍の施設を当時の米海軍基地、デッカー司令官の好意により譲り受け、日本基督教団社会部の責任においてコミュニティーセンターとして開設。法人事務局に加え計5部門からなる。
児童福祉部は、「善隣園保育センター」を中心に、ゼロ歳児から1歳児までの乳児保育をはじめ、2歳児から就学前の幼児保育、保護者の就労や傷病などの理由で家庭での保育が困難な家庭の一時保育サービス、育児教室などを実施。在宅ケア部は、一人暮らしや介護が必要な高齢者に、ホームヘルパーを派遣したり、日帰りで施設に受け入れ、食事や入浴などのサービスを提供したりするデイサービスを。地域福祉部は、「かぎっ子」といわれる児童の学童保育などを、診療部は、訪問看護や訪問リハビリテーション、自宅で病気療養している患者に対する居宅療養管理指導などを行っている。いずれもキリスト教精神の下に「ゆりかごから墓場まで」の総合的な福祉センターの役割を果たしている。阿部志郎先生が1957年から館長を務めている。所在地は〒237-0075 神奈川県横須賀市田浦町2-80-1 電話046−861−9773
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