特集役員・伝道委員研修会講演



「この時代に、福音を宣べ伝える」


講師:近藤勝彦先生(東京神学大学教授)

     日時:2006年7月9日(日) 午後3:00〜5:00
     会場:日本基督教団岩槻教会

 日本にプロテスタント・キリスト教の福音伝道が開始して、ほぼ150年が経過しようとしています。今日、各教会において伝道は決して容易なことでなく、教会学校の生徒数の減少とか、教会員の高齢化とか、いろいろな伝道の課題が自覚されています。しかし他方で、伝道の必要が切実に認識され、伝道に向かう意気込みのようなものがどの教会にも感じられるようになってきました。今日は、そうした日本の教会の現状を踏まえて、私たちが天に国籍を持つものとして遣わされているこの時代や世界を考え、現代の伝道の問題を以下、特に4つの点にしぼってお話したいと思います。
 第一に「この時代に福音を伝える」という観点から、現代という時代や世界の問題、そこに福音を伝える意味や可能性についてお話し、続いて教会と私たちキリスト者の伝道の働きに際して、根本になければならない「二つのこと」についてお話したいと思います。最後に伝道は教会の中に新しく人を迎えることですが、その「伝道する教会」についてもお話ししたいと思います。

1、 現代に、福音を伝える
 現代の人間の問題はどう理解されるでしょうか。現代の世界は金融や経済だけでなく、政治、法、文化などの重複したレベルでグローバル化した世界と言われます。しかもグロ−バル化した世界として共通なものに結ばれながら、同時に随所で深く「分裂」し、「衝突」や「対立」によって引き裂かれ、傷つけあっている現実があります。文明の「衝突」や民族の「対立」に悩まされています。それだけでなく「諸個人の対立」「競争や利害の対立」が大きくなり、「格差社会」などとも言われます。宗教もまた、そうした対立要因の一つと見なされています。つまり人々は「宗教の問題解決能力」に信頼を寄せることができないでいます。

 宗教の問題解決能力を信頼できないということは、現代のもう一つの特徴、きわめて問題的な特徴を引き起こしています。それは、現代人が多く、世俗主義に陥り、感覚主義的になって、現世的な現実を超えた意味や救済の神的現実を信じられず、生きがいを持つにしても刹那的になり、虚無主義の傾向を強めているという事実です。この傾向はすでに18世紀に萌芽があり、19世紀には思想や文学の主題とされ、20世紀を経るうちに一般の生活の中に入ってきたものです。しかし世俗主義、感覚主義、刹那主義、虚無主義では、人生や世界の意味も存在理由も分かりません。救いが分からないわけです。人間の尊厳も命の尊さも確固として仕方で確信することができません。人生の意味や命の尊さを理解するためには、どうしても感覚的な現実を超えて、意味や尊厳の源である超越的な源泉に触れなければならないでしょう。しかしそれはまさしく信仰の問題であり、宗教の課題なのです。

 従って現代の人間は、民族的な対立や分裂の一つの要因をなす宗教ではなくて、民族主義的な文明を越えて、また感覚主義的な生きかたを越えて、現代の「分裂」や「対立」を癒し、人と人とを結び合わせ、平和と一致を生み出し、生の意味を与える宗教を必要としています。また人間は生の超越的な源と結ばれるとき、それによって命の尊厳を示され、人生の意味を受け取ることができます。しかもただ動植物のいのちも人間のいのちも一続きで見る「いのちの流れ」とかでなくて、人間の命を他ならぬかけがえのない人間の命として、他の生命とは区別して理解し、その尊さを伝える超越的な起源との結びつきが必要とされています。現代人はその意味で、もう一度、そうした問題解決能力を発揮できる真の世界宗教を求めていると言ってよいでしょう。「宗教」というものが、どうしても民族的、あるいは地域的な色彩から離れられず、人間の利害を代表するイデオロギー的な性格を脱却できないとすると、端的に言って、現代人は「神の解決能力」に心を向けなおさなければならないでしょう。現代の世界の中で、また将来をも展望しながら、絶望に陥るべきでないとすれば、最後に残された希望の可能性は「神の再発見」以外にはないのではないでしょうか。

 日本社会にも「分裂」や「対立」の問題があります。人々は共同体の崩壊や過激な競争主義の中で孤立し、人と人との結びつきは希薄になり、信用のできないものになっています。地縁や血縁の古い共同体はとっくに廃れ、戦後、国家に代わって人々の忠誠心の対象になった「企業」や「会社」も今や終身雇用制を投げ捨て、誰にとっても最後まで当てにすることのできないものになりました。家族の紐帯さえもひどく希薄化し、道徳や倫理も崩れかかっています。性や結婚の倫理は、この二、三十年でひどく変化しました。人生の基盤が揺れ動いているからです。一部の人々は再び「愛郷心」と「愛国心」に訴えようとしています。しかしもはや古い「郷土」も、そこに忠誠心を傾けて、そのために生きかつ死ぬことのできる「国家」もあるわけではありません。そもそもそうした古い「郷土」や「国家」に忠誠心を懸けたのが誤りであったという反省から、今日の日本社会へと出発したはずです。

 それでは私たちは、一体どこに忠誠心を向け、どこに命をかけ、どこで死んだらよいのでしょうか。命をどこにつなぎ、心をどこに結んだらよいのでしょうか。日本社会の精神の根底にはこの忠誠心問題という深い問題が横たわっています。これも神以外に答えを与えることはできないのではないでしょうか。私たちは命や心をどこに結び合わせるでしょうか。私たちの信頼の相手として真実の神を見出すことが重大です。神に心を結ぶことで、人と人とが互いに結ばれる、そうした神を見出すことが、現代の世界の大きな問題だと思われます。

 もしそのように言うことができるとすれば、「イエス・キリストの福音」は現代人に対して有力なメッセージを伝えています。それは、神が「分裂」や「対立」を克復し、そのためにご自身が犠牲を払い、それによって私たちをご自身に結び合わせ、また他のものたちとも結び合わせてくださったという福音です。神はイエス・キリストの出来事を通して、私たちをまず神ご自身に結び合わせてくださいました。私たちをキリストのものとしてくださり、それによって神の子たちとし、神の民に加えてくださいました。神の子たちとすることで、私たちを相互にも結び合わせてくださったのです。神は、私たちを愛し、憐れみ、それゆえに御子キリストの犠牲、神ご自身の犠牲を払って、確かな根拠によって救いにいれてくださいました。私たちの人生も、そして命も、奥深い意味と尊厳をそこから獲得したのです。人間は闇行為のような偶然の処置で救われることはできません。神は、人間の分裂や対立をキリストの業を通して克服し、ご自身に結び合わせることを通して、人と人をも一つの新しい神の民の中に結び合わせてくださったのです。
 
2、 伝道の根本になければならない二つのこと
           −「救いの確かさ」と「伝道の不可欠性」の確信―

 このキリストの福音を宣べ伝えるときに、根本になければならないことがあります。その一つは、福音を伝える人自身がキリストを信じ、キリストによって救いに入れられていることを信じていることです。これは言うまでもないことですが、誰も自分が信じていないことを宣べ伝えることはできないでしょう。伝道がなかなかできないのは、自分たち自身が明確に信じていないからだとも言えます。「救いの確かさ」の確信がなくては、伝道の熱意は湧きません。もちろん「救いの確かさ」は主の約束にかかっており、その完全な成就は将来のことです。そこで「自分の体を打ちたたいて服従させます。それは他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」(コリ一9・27)という面があります。私たちは誰もが信仰の弱い者であり、「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と言われる者です。ぺトロもまたあの嵐の湖の上で信仰の薄い者でした。しかしそのペトロを主イエスは「すぐに手を伸ばして捕まえて」(マタイ14・31)くださったのです。私たち自身の信仰は薄く弱いけれども、「主の手に捕えられている確かさ」を知ることができます。主のものとされ、神との和解に入れられ、神の民の中に加えられ、救いに入れられている。そのことを信じて、「救いの確かさ」を与えられ、「救いに入れられている素晴らしさ」を知ることができます。「救いに入れられている素晴らしさ」を知ることは、「いま、共にいますキリスト」との交わりに基づいています。私たちの救いのためにご自身を犠牲にされたキリストが、復活し、高く上げられ、神と一つであり、神であるということ、それゆえ私たちと共に今日も生きてくださっています。このキリストの「臨在」が、私たちに「救いの確かさ」を与え、「救いに入れられた喜び」を知らせ、「感謝」を引きこします。それが、伝道に派遣される喜びの根本にあることです。「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)との主の約束は、この「臨在のキリスト」を伝えて、伝道の派遣になくてはならない根本の確信をもたらします。

 伝道する者にされたことは、主の弟子とされ、主を証するものとされたことで、私たちはそれを喜び、感謝して伝道します。誰も感謝も喜びもなく伝道のために駆け出すことはできません。主の弟子とされて、御そばにおかれていなくては、伝道に派遣されません。伝道は根本的には、決して「伝道の危機意識」から、あるいは自分がしなくて誰がするといった類の「英雄主義の自己意識」から、あるいは「一人が何人に」といったノルマ意識や課題意識から出てくるものではありません。神はご自身伝道を推進されるお方ですから、私たちのそうした危機感情や英雄意識を必要とはされないでしょう。むしろ感謝と喜びから、ということは信仰生活の発露として、キリストのものとされた幸いに生かされている当然の結果として、伝道に用いられるのです。私たちがなすべきことは、むしろ主のものとされた確かさ、「救いの確かさ」、「救われたものの素晴らしさ」をしっかりと心に知り、主に捉えられたことを感謝することです。自分がキリスト者とされたことの素晴らしさをはっきりと知ることです。主に捉えられて、生まれ変わらされた者であり、共にいてくださる主の手に捕えられて「救いの確かさ」を確信させていただいています。そこから伝道への献身が生まれるでしょう。それにはキリストが誰であり、いまどこにおられるかを知っていることが重要なことです。主は御子にいます神であり、伝道する私たちと共にいてくださいます。

 主の福音の伝道にあたって、もう一つ重要なことは「伝道の不可欠性」を知ることでしょう。伝道は、してもしなくてもよいものではありません。伝道は、礼拝がそうであるように、主を信じることがそうであるように、信仰生活に欠けてはならないことです。伝道が不可欠ということは、教会が存続していくために不可欠というのではありません。神が神でいらっしゃるためにどうしても伝道が必要というのでもありません。そうでなく、神はその自由なご意志により、愛の意志決定をされて、人々が伝道によって救いに入れられることを意志されました。十字架上に流された主イエス・キリストの血とその苦しみ、そしてその死によって、根拠ある仕方で救いの業をなさった神は、その十字架の業が「十字架の言葉」として宣べ伝えられることを意志されました。それを救いのご計画の中に不可欠なこととして位置づけられたのです。伝道は神の恵みによる救いのご計画の中で不可欠なものとされています。そこに神の恵みの意志が働いています。主イエスの十字架そのものによって救いのことは一切合財全部済ませて、あとはただ神の国がくるだけにしたというのではありません。主の十字架の恵みを信じて、私たちが神の子とされ、さらに神がなお選んでおられる神の民を主の周りに集める働きに用いてくださいます。神は人間の応答や献身を無視されないのです。聖霊を注いで、私たちが神の恵みに応答するのを受け入れてくださいます。神はその救いのご計画によって、主の贖いを通して罪の人間をご自分の民とし、ご自分との和解の中に集めることを決心され、そのために御子は十字架にかかりました。しかしそれだけでなく、聖霊を派遣して、主の周りに教会を集め、また教会を世に派遣して、神の民を集めさせておられます。神は人間を強制的に救済して終わるのでなく、私たち人間が神の救いの業を信じて、告白し、感謝し、神に応答することを求め、受け入れてくださいます。全能の神は、私たちが信じ、応答するのを待って、受け入れてくださる忍耐の神でもあるのです。伝道はしてもしなくてもよいものではありません。心から神を信じ、救いに感謝し、御名をたたえる人が、伝道に用いられること、それが神のご計画です。ですから伝道しない、伝道に用いられないキリスト者というのは、あり得ないことです。

3、 伝道する教会―神の契約共同体―
 「救いの確かさ」と「伝道の不可欠な使命」は教会生活の中に形をとって表されます。教会は、キリストの周りに集められ、「共にいてくださるキリスト」によって「救いの確かさ」に生かされ、また「主に従う」ことによって「伝道に派遣されている群れ」です。私たちは教会生活の中で、「救いの確かさ」の根拠である「いま、共にいますキリスト」に結ばれています。そして伝道の使命に生かされています。神は教会をキリストの周りに集めてくださいました。そして「救いの確かさ」と「伝道の使命」に生きることができるようにしてくださったのです。

 神が結びあわせてくださることを「神の聖なる契約」と言います。神が私たちの神でいてくださり、私たちが神の民である聖なる契約です。神はキリストの業を通し、聖霊の働きにおいて私たちをご自身に結び合わせ、そのことを通して私たち主のものとされた者たちを相互に結び合わせてくださいました。神によって神ご自身に結び合わされ、また主にある兄弟姉妹とも結び合わされるとき、私たちには生きる力が湧いてきます。教会はそうした神による結合が、群れの形、共同体の姿をとっているところです。

 古来、契約を結ぶときは、契約当事者は、その契約を破ったときには引き裂かれ殺されてよいという意味で、二つに引き裂かれた犠牲の間を歩んだと言われます。しかしイスラエルの民は契約を繰り返し破り、ただ神のみが契約的な信実を貫かれました。イエス・キリストが十字架に血を流されたのは、契約を破る人間の罪を贖い、「新しい契約」の樹立のためと言われます。教会はキリストの犠牲によって建てられ、神が結び合わせてくださった契約共同体(covenantal community)です。地縁や血縁による排他的、独善的な民族主義的集団ではありません。神の選びと犠牲によって、神の愛の福音によって一つにされた民です。契約の共同体は、神と結ばれ、成員相互と結ばれているだけでなく、あらゆる民の祝福の基となります。それは、神の民をさらに仲間に加える、開かれた共同体、人々を迎え入れ、神の前に一つの約束に入る共同体、そして他のさまざまな集団の祝福の基になる共同体です。教会は、「救いの確かさ」に生かされ、「伝道の不可欠な使命」に生きる群れです。

 教会はまた、キリストの犠牲によって贖いとられた聖なる契約の共同体として、あらゆる人間集団のモデルでもあるはずです。家族やその他の共同体、とりわけそこに愛の犠牲がなければならない共同体は、教会を模範とし、あるいは教会に結びつくことで意味と力を与えられるはずです。家族の絆が希薄になっていると言いました。教会は神の御前で、その犠牲によって結び合わされた群れとして、家族の絆が回復する支えでなけばならないでしょう。高齢者社会と言われ、高齢者介護が重大な問題になっています。教会の中にそれを慰め、その支えとなるものがあるはずです。キリストの犠牲の愛に捉えられ、人間の共同体能力を回復させる愛の命がそこに働いているからです。私たちは礼拝のたびごとに十字架にかかられた主の前に立って、主の憐れみの力によって慰められ、その永遠の命に与からされます。

 教育や介護、その他、愛の犠牲が求められ、共同体形成の力が問われるとき、教会の中で、主イエスの周りで、神の共同体形成的な恵みの力に捉えられ、慰められ、支えられることができます。グローバル化した世界に不可欠な世界共通文明、世界共通価値の精神的エートスは、少なくとも一つの重大な源泉を教会の中に見出すでしょう。互いに助け合う力が教会から湧くはずです。グローバルな社会的デモクラシー、グローバルな自由市民社会、法の支配、人権とデモクラティックな政治、宗教的寛容、生命の尊厳、平和な国際秩序と環境の保全、そしてさまざまな形での相互援助、そうしたグローバルな共通価値を支える精神が養われるところ、教会はそうした信仰の共同体として、まさに現代世界に有意義な、非常に有意義な世界宗教を具体的に示している