『老いをどう生きるか』
―希望を支える信仰と老後―
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講師:児島 康夫 先生
川越キングス・ガーデン施設長
日本ホーリネス教団川越のぞみ教会員
日時:2006年7月30日(日) 14時30分〜17時
会場:日本基督教団大宮教会(さいたま市下町) |
高齢化社会と信仰継承の問題を主に取り組む埼玉地区壮年部は、2006年7月30日、さいたま市下町の大宮教会で、川越キングス・ガーデンの児島 康夫施設長をお招きし、「老いをどう生きるか〜希望を支える信仰と老後〜」をテーマに講演会を開催。21教会から83人の参加者があった。
講演で児島施設長は、暗かったお年寄りが介護職員らとの交流の中でみるみる明るい表情に変わっていく姿や、逆に癒され、励まされる日常の様子を様々な現場のエピソードなどを交えながら淡々と語り、実生活にすぐに役立つ実践的な温かいアドバイスもあった。そのスピーチに目頭を押さえる観衆もいた。
講演に先立つ開会礼拝では大宮教会の疋田勝子副牧師が説教で、ローマ書のみ言葉を引用し、何にも出来ないお年寄りでも存在自体が証であり、生きる意味がある。それだけで神様に仕えていることになる。高齢者によって支えられている日本の教会の現状を力説。聖霊による無償の賜物が一人一人に与えられ、神様から愛の視線が向けられていると語り、多くの参加者が励まされた。
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「老いをどう生きるか〜希望を支える信仰と老後〜」 (講演要旨) |
「喜ぶものと共に喜び、悲しむものと共に悲しむ」
「お年寄りに私は癒されている」
「教会で本音が話せたら…」
特別養護老人ホームの施設長を11年、今までやっている。仕事のことを話すと、多くの方々から「大変ですねえ」と、言って下さる方が多い。でも、本当はこの仕事を通して私は、「受ける」ことばかりが多い。いろんなことをお年寄りから教えられている。「介護するの大変でしょう。認知症の方が大勢いて苦労しているのでしょうねえ」と,慰めの言葉をいただく。実は特別養護老人ホーム、私共の施設では80%を超える方々が認知症になっているが、お年寄りと接している時は私は癒されている。慰め、励まされていることが多い。私だけではなく、介護職員も非常にお年寄りと接することが大好き、楽しいと言っている。大変ユーモアを感じることが多い。
川越キングスガーデンでは毎朝、近隣の30ほどの教会の牧師先生が入れ替わり立ち替わりでメッセージをして下さっている。礼拝の後に一緒に手を取り合って祈ることがある。私も毎朝、誰かの手を握ってお祈りをする。「どうぞ神様きょうも祝福して下さい。健康を与えてください」と祈ると、お年寄りが「ハイよ」と返してくる。誰に祈っていたのかなと戸惑うこともあるが勇気付けられる。
「あなたのお嫁になってもいいわ」
102歳の方がおられた。大変若々しい気持ちを持っていらして102歳の誕生日には口紅を付けておめかしをして、皆さんと共に「ハッピーバースデー」を歌ってお祝いした。そしたら車椅子から目線を私の方に向け、「あなたのお嫁になってもいいわよ」と言って下さった。本当にユーモアがあるなあと思った。
「和やかな礼拝」
普通のユーモアとは違うが、来られた先生方でも少し戸惑うこともある。ある先生にグレゴリア聖歌が得意な方がおられた。その方が大変な美声で披露してくれた。その歌が終わったら一番前にいた方が唄の最後に合いの手を入れる。「ハアーどうした、どうした」って。和やかな礼拝になる。
国際飢餓対策機構の方が来られた時もそうだった。
「おなか空いた。何か頂戴」
世界では3分の1の人々しか満足に食べられない。3分の2の人は常に飢餓状態であるという話をして下さった。聴いていたお年寄りが「おなか空いた。何か頂戴」と言った。飢餓対策機構の先生が「がくっ」としてしまった。
私共の施設の中で認知症だけではなくて精神的な障害を持っている方も何人かいる。
「私の頭の中もカラフルよ」
その中でユーモアのある方がいて、いつも杖をついたり、手押し車で歩いているが、その人の杖は大変美しい。色彩豊かな絵が描いてある。「きれいな杖ですね」と言うと、「私の頭の中もカラフルよ」と、その方は答えた。いつも突拍子もない楽しい話を聞かせてくれる。こういうことがあるものだから毎日の仕事を楽しくさせてもらっている。介護体験をした方には共通の思いというか、癒しを体験から受けている。あるいは人生の励ましを受ける。肩の力がなんか抜けることがある。
「中核になる症状と、周辺の症状」
認知症というのは大変難しい病気で、認知症になった場合には、回復というのはいろいろ試みられてはいるが、まず難しい。アルツハイマーという病気であったり、あるいは脳血管の障害から起こったりする。一度なると、進行を遅くするということは間々あるが、確実に衰えていく。その中核になる症状と、周辺の症状とがある。
周辺の部分にある症状は,対応の仕方でずいぶん和らげることが出来るが、中核の症状はまず、治ることはないと思われる。どういったことが中核症状かというと、「失見当識」と専門用語ではいうが、今、自分がいる所がどういう所であるかとか、どういう時間の中にいるのかなどの認識が衰えてくる。それからちょっと前にあったこと、短期記憶というが、そういうものも失われてくる。自分が経験して来たこと、そこから得て来た知識というものがだんだんなくなってきて、人物の認識、例えば自分のご主人であるとか、息子さんや娘さんであるとか、そういう認識も失われてくるというのがかなり進んだ状態になってくる。ところがその中核症状だけではなく、周辺の症状がいろいろ生活する上で困ったことが起きてくる。
「『徘徊』という問題」
例えば、皆さんがよくお聞きになる「徘徊」という問題がある。徘徊というのはどこかに出掛けて行って自分の家がどこだか分からなくなって戻って来られなくなる。しかし、何の目的もなく出歩くかというと、必ずしもそうではないようだ。その人にはその人なりの出歩く目的があるようだ。それが私達にはよく分からないので無目的で歩くというふうに思われるわけだ。介護保険の認定の調査というのがあり、調査員がいろいろと「こういう症状がありますか」と聞く。徘徊の部分はこう書いてある。何の目的もなく、出歩くこととある。何の目的もなく出歩くかどうかというのは、周りが見てそう見えるだけで、本人は必ずしもそうであるというわけではない。
「トントンと戸をたたく音」
こんなことがあった。キングスガーデンは中が回廊式になっていて、大体1周で約80メートルある。そこをよく徘徊なさる方がいる。かなり夜更けだったが私が仕事で残っていたところ、トントンと戸をたたく音がした。80歳前後のお年寄りだったが、「アノヨー、例のことだけども自治会長さんに話しておいた方がいいだろうか」といきなり言った。「今、これから町の寄り合いに行くんだ」と言う。
「アノヨー、ゆんべのことだけど」
その方は外との接触がないから自治会の用で出掛けるなんていうのはまずない。それよりも困ったのは「例の話だけど」と話し掛けられる。しかし、私はそういったことに慣れているものだから「例のことはやっぱり話しておいた方がいいでしょうね」と受け答える。そしたら、その方は「分かった。じゃあ行ってくらあ」と言って出て行かれた。5分ぐらい経ったころ、その廊下を1周して戻ってきて、またトントン戸をたたいて入ってきた。「アノヨー、ゆんべのことだけど、例のこと話しておいて良かったよ。うまくいった」と言う。1周してくると「ゆんべのこと」になってしまうのだ。でも、その方に、「ああ、そうですか。良かったですね」と言うと、「うん、そうだ」と相手も答える。後で聞くと、その方、その晩、ぐっすりと休んだそうだ。いつもは昼夜逆転して、昼間はよく寝ているが、夜になると起き出してしまう。「例のこと」が気がかりとして残っていたのだと思う。私達には分からないが、その人には何らかの目的があってそういうことをするのだと思われる。
「パーッと真っ白になったら」
今、皆さんは当然、きょうの日にちであるとか、大宮の教会に来ているというような認識がある。それがこのたった今、そういうことがパーッと真っ白になったらどうでしょうか。考えてごらん下さい。非常に不安になるでしょ。自分がここにいていいのだろうかと思いますね。隣の方が、この方はどなただったろうかと分からなくなったら、もう不安でこうしてはおられないと、思うのに違いない。それがいわば中核の症状である。そしてあわててどこかに行きたくなってしまう。行動を起こしてしまう。これが周辺症状だ。ですからその周辺症状が日常生活の中では周りの人に困ったこととして写るわけだ。
「そばにいてあげることが大事」
私達はそうした人達に対してそばにいてあげるということが大事だ。「大丈夫ですよ、そばにいるから。何か助けることがあったらおっしゃって下さい」と、常にそばにいてあげるということがその症状を和らげるために大変有効になる。
例えば、ここにあったものがどこかに行ってしまった、ここにちゃんと置いておいたのになくなってしまった、というようなことをおっしゃる方がよくいる。「ここに置いた」という記憶が失われる。そして人のことを疑ったりする。大体疑われるのが一番身近にいる人、この中でも「大変困った」という体験をされたことのある人がおられるかも知れない。
「あんたが盗ったんじゃないか」
いつも一生懸命介護をしている身近な人、例えばお嫁さんが一番疑われる。「ここに置いておいたのだけれどもなくなった。あんたが盗ったんじゃないか」と、いうふうに疑われるわけだ。介護をしている人は情けなくなってしまう。そうしたときにどうしたらいいか。いろいろな方法がある。「じゃあ、一緒に探してみましょうか」というのもいいでしょうね。ありそうなところを一緒に探すこと。大体あることが多い。あと、嘘を言うこと、虚言という周辺症状がある。
「誰でもがすぐ分かる嘘」
自分が責められることを避けるために嘘をつく。もう、考えられないようなことを言う。「おばあちゃん、ここに置いといたお菓子どうしたの。なくなっているけど」。大体おばあちゃんが食べてしまっていることが多いが、「私が食べたよ」とは、絶対言わないですね。「今、ここに子どもがきてね。2、3人来てて、遊んでいって、なんか食べちゃったみたいだよ」というような、本当に誰でもがすぐにでも分かるような嘘を言うことがある。自分が食べてしまったということ自体、よく覚えていないのだと思う。でも、今自分が責められているような気がする。それを避けるために嘘を言う。そのような症状、これを和らげるためにはどうしたらいいのか。やはり、自分が責められているという気持ちをなくすこと。あるいはここにいていいのだろうかという不安を和らげるような接し方をする。これを考えなければいけないのだと思う。
「誰にとって問題なのか」
よく老人問題と最近いわれるが、老人問題というのは、多くの場合、介護にある。どう介護していったらいいのか分からない。介護で周りのものが大変疲れる。しかし、「問題だ」という時、果たして誰にとって問題なのか、ということを考えるべきだ。認知症のお年寄りは問題行動が多いという時に、お年寄り自身ではなくて、実は周りにいる人にとって問題があることが多い。介護している人はどうしていいか分からない。イライラしてしまう。もう、分からないことを延々言い続けられると、時には切れてしまう。そういう介護する人自体が問題であると、私は思っている。
「私の苦労は何だったのか」
私が施設長になって間もなくのことだった。川越に大相撲の巡業が来たことがあった。お相撲さんが来ると、大変人気があるものだからすぐにチケットが売れてしまった。キングスガーデンでもお相撲が大好きな方が何人かいるので私はチケットを買いに行ったがもう、売り切れていた。川越市が主催していたので何とか頼み込んだら快く分けてくれた。5枚入手した。付き添いや車椅子の席もしつらえてもらった。そうした配慮で相撲を楽しむことが出来た。お年寄りは本当に喜んだ。ところがその帰りだった。車の中で私は「楽しかったですか」と話し掛けた。「エッ?」という返答だった。「今楽しんできたじゃないですか」と言うと、「知らない」と言う。私はがっかりした。あれだけ苦労して準備をして連れてきて差し上げたのにまったく覚えていない。私の苦労は何だったのだろうか。水の泡だと思い、ちょっと、憤慨した。帰ってから私は大反省した。
「忘れるという病気」
お年寄りが覚えていないというのは、病気だから仕方がないんだ。忘れるという病気なんだ。だけど、約3時間の間、お年寄りはあんなに楽しんだんじゃないか。ああいった笑顔をしばらくぶりに見た。素晴らしい時間を過ごしてもらったんじゃないか。私達はそれでもって満足すべきじゃないか。そういうふうに思った。そして、その楽しい時間を続けていくこと、一瞬一瞬、それは忘れるのだろうけれども、それでも構わない。そういった時間を今後も過ごしていただく。
「介護のこつ」
そういうことを積み重ねていくことが大事なんだなあということを私は介護のこつというものをその時教えられた。案の定、認知症になった方というのは「何かをした」という経験は見事に忘れるが、感情というのは残る。快いという感情が残っていく。そしてそれが積み重なっていく。
「問題をそのまんま受け入れる」
快い思いをしたということを積み重ねていけば、その人の心は安定する。逆の場合もある。本当に嫌な体験というのは、体験自体は忘れてしまっても、嫌な感情、恐怖とか不安とかを重ねているとそれは残っていく。そして毎日毎日が不安である。そういう状態になっていくようだ。私達にとって問題であることもそのまんま受け入れていく。
「お年寄りが変わってくる」
それでもOKというふうにしていくと、本当にお年寄りが変わってくるのだ。問題があると最初は言っているが、だんだんそういう介護を続けていくと、問題がなくなるわけではないが、問題でなくなるんですね。問題でないということを積み重ねると、今度は段々と問題がなくなってくる。単なる「てにをは」の問題ではなくて、こういう経験をしばしばしている。「ああ、介護は不思議なものだあ」というふうに思う。とはいっても24時間ご自宅で介護なさっている方は、それはそれは大変なことだと思う。疲れるわけですね。
「絶望的な気持ちに」
自分の疲れ、これを誰が理解してくれるか、となるのではないか。認知症の介護は一人の人に集中してしまって周りの人にはその大変さが分からない。お嫁さんが介護している時に、日中お勤めに出ている夫は、大変な部分がよく分からない。誰にこの苦しさ、つらさを訴えたらいいのか、と私共の所に相談に来られる介護者の方がいる。「近所の人にはなかなか話せないですよ」という。「近所の人に話すとその噂がどんどん広がってしまう。白い目で見られている感じがする。親戚の人にも話せない。話すと、自分の大変さを主張し、他の親戚が誰も看てくれない。手助けしてくれないと、責めているように思われる。
「お客さんが来るとしゃきっと」
時々、親戚の人がどう大変かを見に来る。認知症の人も誰かお客さんが来るとしゃきっとしてしまう。そしていつもの問題の行動を見せない。あの人(お嫁さん)大変だ、大変だと言うけど、そんなことなさそうじゃないと、帰って行くというのだ。これは大変つらい。介護者が孤立をしていく。
「ご婦人が真っ青な暗い顔をして」
ある時、私が勤め始めたころですが、日曜日、受付をしていた。体格のいいご婦人が真っ青な暗い顔をして来られた。当時は介護保険のない時で、施設の利用も行政を通してでないと出来ない時代だった。直接来て「お宅にはショートステイというのがあると聞いたが、うちのおばあちゃんを預かってほしい」と言ってきた。緊急のショートステイというのがあったので、了解し、後で役所の方には届けて下さい。きょう受付はしますから」と受け答えした。提出する用紙に住所、氏名はすらすら書いたが、利用する目的の欄には何と書いたらよいかと聞かれたので、「介護疲れ」と書いて下さいとアドバイスしたら、その人、手が震えて書けない。
「介護疲れを理由には…」
「どうなさったか」と聞いたら、お母さんを自分の介護疲れを理由に老人ホームに預けることなんて出来ないと話した。律儀な方で、自分が疲れたということでは親戚中に顔向け出来ないという。それで私が代筆してお預かりした。その方はお姑さん思いで、毎日電話を掛けてきて「どうですか母は」と様子を尋ねてきた。やはりそのおばあちゃんは大変な人だった。夜昼が逆転していた。ふらふら常に出ていってしまう。
「4年ぶりで夜をぐっすりと」
1週間経ってそのお嫁さんが来られた。最初の日とまるで違って明るい顔をしておられた。「ありがとうございました。私は4年ぶりで夜をぐっすり寝られました」と、おっしゃった。4年間もずーっと、ろくろく寝られなかったというのだ。
「おばあちゃんと心中しようと」
その方はそれ以来、毎月決まった週に1週間づつ利用された。後から聞いた。その方は最初の利用の時に、自分で進んできたのではなく、周りのご近所の人に勧められて来たという。「どうもあそこのお嫁さん、最近おかしい。介護に疲れ果ててどうも変なことをしそうだ」ということだったそうだ。「どんなことしそうだったの」と聞いたら、「おばあちゃんと一緒に心中しようと思っていた」というのだ。その後、その方からいろいろ話を聞いた。「あのころは暗いトンネルを入ったまま、どこからも光が射してこない。いつになったらこのトンネルを抜け出すことが出来るかと思ったら絶望的だった」と話した。
「人間業ではない」
「最近はどうですか」と問うたら「最近もトンネルの中には違いないが、所々に明かりが射しています」という返答だった。数年間、キングスガーデンのショートステイを利用する中でそのおばあちゃんは召された。24時間ずーっと介護をし続けることは人間業ではないですね。限界を超えていると思う。
「シェアし合う介護」
介護は人と分担する。シェアし合うということが大変必要なことだと思う。ある部分はやはり公的サービスを使った方がいいと思いますね。昼間休みたかったらデイサービスというのがある。デイケアというのもある。その違いについては後のお茶の時にでも話したい。時にはショートステイ、短期入所が必要かも知れない。
「デイサービスって何」
アメリカに見学に行ったときに「デイサービスについてどうやっているか」と聞いたら「デイサービスって何」と聞いてきた。デイサービスとは日本語で、英語にはないそうだ。「レスパイトサービス」というのだそうだ。レスピットともいい、レストというのは休むという意味だという。
「家族が休むんだよ」
「ああ、お年寄りがここに来て休むということなのですか」と言ったら「そうではない。家族が休むんだよ」と言われ、私は目から鱗が落ちた。こうしたサービスは勿論お年寄りが楽しい思いをするばかりでなく、それ以上にいつも介護しているご家族に休んでいただく。そういうサービスでもあるのだなと思った。
「それ以上に精神的なつらさが」
介護のつらさは肉体的なものもあるだろうが、それ以上に精神的なつらさだろうと思う。「優しい気持ちで介護しよう」と、最初は誰しも思うわけだが、だんだんそうも言っておられなくなる。私共の施設で時々介護者教室を開く。普段家で介護している人にいろいろな介護情報を知らせる。その後にお茶の時間があり、それを楽しみに来る人もいる。何でも普段の悩みごとをうち明けられるということを楽しみにしているのだ。そこに来ている人達はみんな苦しい経験をしている介護者たちなのだ。
「表に出てくる虐待は氷山の一角」
そこでは何を言っても責められない。自由に話せる。「私、もうおばあちゃんがあんまりにも分からないのでたたいてしまった」という。「虐待」ということが最近よくいわれる。表に出てくる虐待は氷山の一角だ。私共に来られるデーサービス、ショートステイの方々にお風呂入っていただくと、いろいろなところにアザを作っている。大変不自然なアザもある。お年寄りは毛細血管が弱いからちょっとたたいてもアザが出来たりする。
「このアザ、嫁がたたいたの」
おばあちゃんが外に行ってご近所の人に「その腕のアザどうしたの」と聞かれ、「これ、嫁がたたいたの」と答える。「情けなくて情けなくて…」とおっしゃる方がいた。自分が心ならずもたたいてしまったことに一番つらく苦しく思っているのはその介護している人なんですね。自分の無力さとか、自分の愛のなさ、これに気が付くのは一生懸命介護している人なんですね。時に非常に良心的な方々、クリスチャンなんかも多いんですよ。自分は他の人と比べると、愛があると思っていた。お姑さんが弱ったときには他の人とは違って優しく介護してあげよう、そう決心していた。だけど、いざそういう時が来たときに、そうできなくなってしまう自分を発見する。
「あの人さえいなければ…」
愛のなさが暴露されてしまう。「これが一番つらいんです」と、おっしゃった方がおられた。先ほどの介護者教室に戻るが、ある時こんな方がおられた。「私はお姑さんの介護をしているが、もう何年もずーっと続けている。あの人さえいなければもう少し充実した人生が過ごせたと思っています」。そうしたら会場がシーンとしてしまった。かなりこれは危ない発言だ。まず「あの人」という言葉遣い。「あの人さえいなければ…」。
「涙ポロポロ、分かる、分かるよ」
その数秒後、シーンとした会場にいる人々がみんな涙ポロポロ、流した。「分かる」「分かるよ」、本当に感動的な場面でした。言った本人も涙を流した。でも、帰るときにはずいぶんすっきりとした顔でお帰りになった。それから半年経ったころか、その方が私を訪ねてきた。「その節はお世話になりました。あれから間もなくお姑さんは安らかに亡くなったんです。そしてそれらの日々のことをずーっと懐かしく思っているのです。私はあのおばあちゃんがいたからこそ人並みの苦労が出来ました」そうおっしゃったんですよ。「本当にいい経験が出来ました」。
「介護を通していろいろ勉強」
勿論これは済んだからこそ言えた言葉なんだと思いますが、しかし、やはり介護を通していろいろ勉強できた。人生において充実した時間が過ごせたという実感は本当だろうと思う。私は「キリスト教会で本当に本音の話が出来たら素晴らしいだろうな」と思う。
「受けとめる。裁かない」
教会に来ると、ちょっと気取って本音の部分が話せない。そんな例があるかも。「そんなこと言っちゃダメよ」とか、「聖書にもこう書いてあるでしょ」とか、「もっと愛をもって接しましょうね」とか、言われたらもう、次の日から本音は言わないでしょうね。どんなことを言ってもそれは受けとめる。裁かない。これが介護の問題では必要なことだと私は思っている。
「積極的な虐待と、消極的な虐待」
先ほど虐待ということを申し上げたが、積極的な虐待と、消極的な虐待というのがあって、積極的なのはやはりたたいてしまったり、蹴飛ばしてしまったりすること。でも、多くの場合は消極的な虐待だ。聞こえているのに聞こえない振りをする。「ちょっと、待っててね」と言って何時間も過ごしている場合がある。私達、介護の専門家であっても、そういうことがある。これは本当に反省しなければいけないのだけれども、やはり介護の問題は一筋縄ではいかないな、と思わされている。
介護しやすい方と、そうでない人がいるのは事実だ。皆さんもぜひ、介護されやすい人になるよう準備してほしいなと思いますね。
「ありがとうの一言」
簡単なことだと思うのだが、「ありがとう」という言葉を身に付けることが必要だ。その一言でずいぶん違う。介護してくれている人に「ありがとう」―。これだけで介護している人は救われてしまう。
「老いを受け入れることも必要」
私達は自分自身の衰え、老いというものを受け入れていくことも必要だ。電車の中でも時々席を勧められることもあるでしょ。「まだ大丈夫」と、頑張ってしまう人もいるが、座って差し上げたらどんなにか勧めた人が救われるか。年寄りの振りをしてでもいいから座って下さい。本当にそういったことって必要なのだ。介護を受け入れるということ。時にはお年寄りの側にも必表なことだ。
「認知症になったらどうしよう」
今、自分自身の老いというものを考えると、不安になる。老醜をさらすのではないかとか、寝た切りになって息子や娘やそのほかの人達に迷惑を掛けるのではないかとかで不安を感ずるかも知れない。認知症になったらどうしようか。その時になったら、もう遅いですね。自分で選べない。なるかならないかは選択不可能だ。
「周りに良い関係をつくっておく」
私達は今すべきことが一つある。それは周りに良い関係をつくっておくということ。これは現実的で大事な準備といえる。人は生きてきたように老いていくというが、人間なかなかすぐには変えられないが、今から周りに良い関係をつくっていくことが必要だ。身寄りのない方も周りに、あるいは教会の中に良い関係をつくっておくことだ。そうすれば何とか周りがしてくれる。認知症になったときには手だてを考えてくれる。
「自分自身が介護されやすい者に」
ぜひ、今から人間関係を良くしていくことを心掛けてほしい。自分自身が介護されやすい者となるためにどうしたらいいのか、考えると、今実際になされている介護の場、施設に見学に行ってもいいですし、あるいはそういうご家庭を見てもいい。出来るだけ多くを見ておくことが必要ですね。
「体験で方法が分かってくる」
体験をするということ。体験をしておくと方法が分かってくる。どうしたら人に受け入れられやすいのか。よく分かってくる。そうしたお年寄りとも共感できるようになる。同じ気持ちになることが出来るんですね。これは私達の今後の人生を良く生きるのに大事なことなんだと思う。
「お通じがあったんです」
こんなことがあった。ショートステイを利用している方で、その最中にだんだん機嫌が悪くなっていく。いつもの自分の生活とは違っているわけだから、いろいろ不自由さを感じるのかも知れない。
ある日、それまで大変不愉快そうな顔をしていたが、その晩に私と顔を合わせたらにこにこ笑っている。何か私に話したいような感じだった。私が「何かいいことあったのですか」とお尋ねしたら、その方「実は施設長さんにこのことを話したくてここで待っていたのですよ」と言うんで、さらに聞くと、フフフッと笑ってなかなか話してくれなかったが、ついにこう言った。「9日ぶりにお通じがあったんです」。私はがくっときた。しかし、その人にとってはお通じがあったというのは重大なことだったのだ。環境が変わるとどうも具合が悪くなる。一日一日が不愉快で気分が悪くなり、不穏状態になる。
「心の底からとても熱いものが」
お通じのうれしさにその方は私の手を握り「うれしい、うれしい」、私も手を握り返し「良かったですね」の繰り返しを約15分もやっていた。そしたら私の心の底から何かとても熱いものがこみ上げてきたんですよ。それで自然に涙がポロポロと落ちてきちゃった。自分自身でびっくりした。その方の喜び、うれしさというものが、そのまんま私のうれしさになった。そして、聖書の中のみ言葉が浮かんできた。ローマ書の12章15節。「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみなさい」というパウロの言葉だ。悲しむ者と共に悲しむというのはよくありますね。しかし、喜んでいる人を見てなかなか共に喜ぶのは難しい。でも、聖書は共に喜ぶことを勧め、その恵みに与るように私達を招いてくれるのだと思う。
共感する喜び、これが介護の醍醐味だ。そして人生の、また信仰生活の醍醐味にも通じるのだろうと思う。
「教会の中だけで完結しない」
クリスチャンや教会は弱い方のために手を差し伸べる。しかし、その際、気を付けていただきたいことがある。それを教会の中で解決しようとするあまり、問題を教会の中だけで完結させてしまうきらいがある。教会は何人も多くの方が集まっているから多くの方で手助けが出来るのだけれども教会の中だけで完結しないようにというのが私のアドバイスだ。
「公共サービス機関の利用を」
今、介護の問題に関しては手前みそではないが、公共のいろいろなサービス機関がある。専門の機関があるんですね。その人にとって適切なアドバイスをしてくれる所がある。時には24時間ケアしてくれる所もある。そういったところに相談するというのも重要だ。そこと手を組んでいくというのも必要。
「もっと良く教会が地域に密着を」
教会も地域に建てられている。その地域の中に必ず民生委員さんがいる。民生委員さんと連絡を取ってみたらどうでしょうか。もっとよく教会が地域につながることが出来ると思いますよ。地域に保健所もある。在宅介護支援センターとか。そうしたところと手を組んでみたらどうでしょうか。あるいは居宅介護支援事業所にはケアマネージャーがいる。そういった方と連絡を取ってみては。いろいろな介護の世界が分かってくる。こうすれば簡単に出来るのだなということも分かってくる。
「教会が地域のセンターに」
そうなると今度は教会が教会にきていないお年寄りであっても民生委員さんから相談を受けたり、あるいは民生委員さんが持っているケースがあるから、そういうものに協力して助けることが出来るようになる。地域で教会がこういう問題の一つのセンターになることが出来れば、ずーっと教会はもっともっと地域から信頼感を得ていくんじゃないだろうかと思う。
「救急車を呼ばないで下さい」
私が所属している教会に一人の男性、87歳の方がいる。この方、独り暮らしで日曜日、教会に来ることもままならない感じの人だが、時々ホームヘルパーさんがその家に入っていた。3年前のきょうのような熱い日だった。ホームヘルパーさんから教会に電話があり、脱水症状で家の中で倒れていた。牧師が駆けつけた。これは素人の手に負えないから救急車を呼ぼうと言ったらその方が虫の息だったが、「救急車を呼ばないで下さい。私は病院が嫌いです」と言うのだ。昔何か病院に余りいい印象がなかったようなことがあったらしく、「病院には連れて行かないで下さい」と言う。民生委員さんも駆けつけてくれたが、以前にも同じようなことがあり、その時は救急車を追い返したというのだ。救急車も本人が行かないという意志を表明すると連れて行けないという。困っちゃって私も呼ばれたが、私はお年寄りの気持ちを他の人より分かる部分があるもんだから、そういう時はお年寄りが嫌がることをしない。
「2、3の選択肢を用意」
どうしたらいいかというと、二つか三つ選択肢を出すことにしている。そしてその中の一つを選んでもらう。そうすると意外と、「ならばこうしよう」と選んでくれる。私はこういった。「救急車で病院に運んでもらいましょうか、それとも今ここで担架をつくって皆さんと一緒に運びましょうか、それともキングスガーデンに来ますか」と聞いた。
「キングスガーデンに行く」
そしたら「キングスガーデンに行く」と言うのですよ。しめたと思い、キングスガーデンのショートステイに連れて行って、看護師がいるからそこで緊急に手当をして、その場をしのぐことが出来た。翌日には往診をして下さる医師を頼んで点滴などをしていただいて一命を取りとめた。
「行政が牧師さんを呼び相談」
それからはショートステイ後もいろんな方々が協力してその方の安否を確認してくれるようになった。近所の方とか、あるいは民生委員さんとか、それから市の在宅介護支援センターの人とかが、協力しあいその人のケアを考えてくれるようになった。行政の人も牧師さんを呼び、相談するようになった。「この方の普段の精神生活にはどういったケアが必要ですかね」と相談するのだ。
「牧師もケアチームの中に」
牧師さんもケアチームの中に入っていろいろと面倒を看ることが出来るようになった。そうすると民生委員さんも行政の人も牧師さんを信頼してくれるようになり、牧師がいろいろな相談も受けるようになった。
「教会は常にアンテナを張って」
地域の中で介護チームのようなものが出来るといいなと思う。教会は常にアンテナを張って近所に困っている人はいないだろうかと、情報を得て、普段協力しあっている方々と連絡を取り合えればその地域は明るくなるのではないか。
最後のまとめに入るが、開会礼拝の時に疋田先生がメッセージして下さった「お年寄りにも本当に生きていく意味があるのだ」ということを私は介護の仕事に入ってから深く感じるようになった。「もう認知症になって、ああなったらもうお終いねえ」という言葉も聞くが、決してそんなことはない。
「病院から追い出されて」
この方は3年前の12月に亡くなった方だが、それまでの10年間くらいキングスガーデンで過ごされた。入ってくる時は病院の先生とけんかして来た。がんの手術をするその当日、けんかして、病院から追い出されてきた。行くところがなくなってキングスガーデンに来た。確かにその方はわがままで、家庭でも亭主関白だったようだ。その方、ホームに来てだんだん変わっていった。毎日聞く牧師さんのメッセージのおかげかも知れない。周りで介護する人のおかげかも知れない。心が柔らかくなり、晩年には自分では何も出来なくなってしまったが、ヘルパーが介護する度に手を合わせ「ありがとう」と、言うようになった。
「何で私だけが面倒を」
最後の1カ月だったが、5人兄弟いるうちの娘さんが介護に来て、川越市内にお勤めで、勤務が終わってから見舞いに来られた。ほかの兄弟はみんな出ていって何の因果か私だけが川越に残り面倒をみなきゃならなくなってしまった。兄弟の中で自分が一番親から愛を受けなかった、かわいがってもらえなかった。その私がどうしてこんな介護をしなければいけないのかとぼやいていた。
「ありがとうね」
ところが1カ月ずーっと毎晩毎晩来られて、お父さんも意識のあるときには「ありがとう」と言うようになった。介護職員が介護する姿にお父さんが「ありがとう。感謝します」と。その方は入居後3、4年目ぐらいに洗礼を受けていたのだが、そうしたお父さんの姿をずーっと見て、お父さんの中の良さというものをその娘さんは発見することが出来たのですね。自分に対しても「ありがとうね」という感謝の言葉を聞いて長い間のわだかまりが解けたようだった。
「輝く顔とはああいう顔なのだ」
最後の日だった。私が朝、お見舞いに行った。「どうですか」と言うと、輝く顔はああいう顔なのだと思った。本当に明るい顔でベッドの上で天井を見て「わたしはきょう、天国に行くよ」と、おっしゃった。その晩、娘さんも来て楽しい時間を過ごされて夜もかなり更けたその日のうちにその通り天に召された。
「父は私にいいもの残してくれた」
娘さんはその時おっしゃった。「父は私に一番いいものを残してくれました」。今までの長い人生の中でずーと与えられてこなかったものだけれど、でも、最後の1カ月に兄弟の中でも一番いいものを受けて「これからの人生を生きていけます」と語っていた。
「生きる勇気が与えられた」
皆さん、もうなん〜にもすることが出来なくなっても生きている意味があるんですね。きっと、娘さんにとっても今後、生きる勇気が与えられたと思うんですよ。
「人は死んでも意味がある」
そして、人は死んでも意味があるんですね。死んだお父さんから今も勇気を与えられていると思うのですよ。本当に人間の存在というのは不思議なものだ。「そこにいるだけで」と、疋田先生はおっしゃった。
「神様は覚えていて下さる」
確かにそこに存在するだけで私達は神様から素晴らしい生きる意味を与えられているだろうなと思う。私も認知症になったお年寄りからたくさんのことを受けている。そして信仰の何たるかもきょう、話せなかったが、教えられた。私達が人の顔を忘れても自分の子どもは親の顔は覚えていますね。私達が神様のことを忘れても、きっと神様は覚えていて下さると思うのですよ。それは確かだ。本当にそのことに希望を持って、私達、暮らすことができたらどんなに素敵でしょうか。ご静聴ありがとうございました
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児島 康夫施設長のプロフィール
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1945年生まれ。68年早稲田大学第一文学部、国語国文学科卒業。
越キングス・ガーデン施設長。
川越市介護保険要介護認定審査員。
聖学院大学講師。
日本ホーリネス教団川越のぞみ教会会員。
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